七章

7-1

 雨が降っていた。

 大雨だった。


 窓を打つ雨音は強く、外の景色は水流の中に歪んでいる。

 ドミニクは夜の闇と、歪んだ自分の顔を見ながら、外の景色を、何を思うでもなく、眺めている。


「どうしたの。アナタ」


 妻のミーシャが、窓辺に立つ彼に声をかける。


「いいや、なんでもない」


 ドミニクが見つめるのは、窓に映る妻の顔。

 雨水でもはや顔とも呼べない歪んだそれに、彼はそう言った。

 だがミーシャは安堵できなかった。

 ドミニクの様子がなんだかおかしい。

 いつもと何かが違う。

 けれど、その何かがわからない。

 正体のわからないその変化に、彼女は静かに不安になった。


「悪いが、少し一人にしてくれないか」


「え、ええ。いいですけど、あまり夜更かしはしない様にね。体に毒だから」


「ああ」


 また、彼は妻の顔を見なかった。

 窓に映るミーシャの顔が、歪んだ。

 それが不安のせいなのか。

 それとも雨の作り出す水流のせいなのか。

 ドミニクには一向わからなかった。


 一時間ほどが経った頃。

 ドアチャイムがけたたましい音を立てた。

 ドミニクは重い腰を上げると、グラスを傾け酒を飲み干す。

 2回目のチャイム。急かす様に3、4回と立て続けにならされる。


「こんな時間に」


 寝巻きに着替えたミーシャが寝室から出てきた。

 さっきまで眠っていたらしく、寝巻きにはいくつかのシワがついている。

 彼女はまぶたを擦りながら、玄関へ行こうとした。

 それを、ドミニクが制した。


「俺が出る」


「でも……」


「大丈夫だから」


 ミーシャはまた、不安そうな顔を歪める。


「ねぇ、どうしたのよ。今日のアナタ、ちょっとおかしいわよ」


「大丈夫だから。心配するな」


 またチャイムが鳴り響く。

 ドミニクは玄関の方へ体を向けて、居間から出て行く。

 ドミニクは廊下を進み、玄関までやってくる。

 チャイムはいまだに鳴り響いている。

 まるで死ぬまいと必死に喘いでいるようだ。

 そして、その悲鳴はドミニクを呼んでいる。

 勘ではない。それはむしろ、確信に近いものだ。


 心を落ち着けて、ドミニクは鍵を開けた。

 それからロックチェーンを二つ外して、ドアを開く。


「……夜分に押し掛けてしまい、申し訳ありません」


 玄関の軒先に、男が立っていた。

 ジムだった。

 体は雨に汚れ、体のあちこちには痛々しい傷を負っている。

 それでいて、彼の目だけはやけにギラギラと輝いている。

 目の強さと反比例する、弱々しい身体。

 彼の今の姿は、ドミニクには弱り切った野良犬の様に映った。


「こんな遅くに、どうしたんだね」


 驚きを殺しつつ、ドミニクは言う。


「今晩、泊めていただけませんか」


「それはいいが、一体何があったんだ」


「お話しいたします。ですが、今は中に……」


 彼は一歩を踏み出した。

 しかし、自分の体を支えられるだけの力は、残されていなかった。


 ジムは前のめりに倒れ、ドミニクは彼を胸に抱きとめる。

 ジムの肌は冷え切っていたが、彼の額は熱を持ち、体温よりも高い温度を放っている。


「その人。どうしたの」


 ミーシャがドミニクの背後からやってきた。

 ドミニクは肩越しに顔を見た。

 ジムと夫の顔を交互に見て、必死に理解をしようと止めている様に見えた。


「悪いんだが。タオルと着替えを持ってきてくれ。それと、布団も」


「誰なの」


「私の古い友人だ」


 ドミニクはそうとだけ言うと、ジムを連れて居間へ戻っていく。

 ミーシャは彼の顔を盗み見た。

 悲痛と覚悟を宿した顔を。

 夫の見せる初めての顔。

 その顔に、妻は言葉を失い、ただ彼と見知らぬ男が今に消えていくのを、見送る他に出来なかった。




 ソファの上にジムを下ろした後、ドミニクはしばらくの間、彼を見下ろしていた。

 眠りの中でくるしげにジムがうめく。

 浅い呼吸を繰り返しては、その合間に息を乱す。

 こんなに弱々しい彼を見たのは、初めてのことだった。

 そして、彼に対して後ろめたい気持ちを抱いたのも。


 妻の目がないことを確認すると、ドミニクはポケットから水晶を取り出した。


「私だ。客が到着した。……ああ。そうだ。多少傷がついているが、問題ない。……わかった。約束は必ず守ってくれ。いいな」


 言葉を切ると、ジムはポケットに水晶を戻す。


「……すまない、これも子供たちのためなんだ」


 誰に言うでもなく、ドミニクはポツリと、呟いた。

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