6-10
地下室の上には、殺風景な広場が広がっている。
ガラスのない窓、ひび割れが壁。
天井は崩れ落ち、大きく開いた穴からは青空がのぞいていた。
郊外にある旧病院跡。手術中の事故が原因で経営難が続き、つい数十年前に廃墟になった場所である。
病院らしさは何一つなく、あるとすれば玄関の脇に投げ捨てられた、松葉杖くらいのものだ。それも雑草の中に隠れていて、探さなければ見つからないのだが。
「何かあったのか」
一階のがらんとしたエントランスに、男が立っている。
彼というのは、いつかゲラルドの腹での一件を、ヴィオラと共に観察していた男である。
彼女は階段を急いで登ると、足早に男の元へ向かっていく。
「いえ別に。今日はどうされたのですか」
「近くに寄ったから、君の顔でも見ておこうと思って」
「こんな廃墟の近くに、ですか」
「ああ。何か問題でもあるかね」
「いいえ。別に」
嘘、と言うことはすぐにわかった。
この辺りには建物もなければ、人家もない。
植物や動物を観察するのにはうってつけだろうが、男にはそんな趣味はない。
ついでに来たと言うより、ここを目指してやってきたのだ。
だがその理由はわからない。
いや、あてはあるが、ヴィオラはまだそれと信じたくはなかった。
「わざわざありがとうございます。それで、私に何か御用でも」
微かな悪寒を感じながら、ヴィオラは男に尋ねる。男は肩を竦めると、
「彼がいるだろ、ここに」
と言った。
ささやかだった悪寒が、鳥肌になって彼女の背中を撫でた。
「彼、と言いますと」
「ジム・フランコ。君とってはジャックという名前の方が、親しみを覚えているかもしれないが。どちらにせよ、彼であることに変わりはない」
「いたとして、どうだと言うのです」
「すぐにでも始末しろ」
これまでにないほど、心臓が高鳴った。
冷や汗が額に流れないうちに、彼女は口を動かした。
「どうしてです」
「彼に我々の存在が知れた。いくら有能であろうと、のぞき趣味は歓迎できない」
「まさか、そんな」
「疑うのかね。私を」
男の視線が彼女の心を貫いた。
堪えていた冷や汗がついに決壊し、頬を伝ってシャツに落ちる。
「いえ。そんなことは」
「……これを、君に渡しておこう」
男は胸ポケットから小瓶を取り出して、ヴィオラの手に渡した。
「労せずに、奴を殺せる。使い方は、わかるな」
瓶の表面にはラベルはない。
中には透明な謎の液体が入っている。
毒物の一種だろうが、それを詳しく聞く気にはなれない。
おそらく聞いたとしても、男が取り合ってくれるとは思えなかった。
「ありがとう、ございます……」
「気乗りがしない様なら、他のものにやらせるが」
「いいえ、やります」
「ならば、くれぐれも気をつけることだ。些細な油断が、失敗につながらないとも限らない」
「……はい」
男はヴィオラの肩を叩くと、彼女に背をむけて、廃墟を立ち去った。
何事もなかったかの様に、静寂が辺りを包む。
ただし、ヴィオラの耳には、喧しいほどの鼓動の音が響いていた。
彼女は深く息を吐くと、踵を返し、登ってきたばかりの階段を降りていった。
またノックの音が聞こえた。
すぐに扉が開き、ヴィオラが入ってきた。
「……気に食わないことでも言われたようだな」
苦い虫でも噛んだ様に、ヴィオラは険しい表情を浮かべている。
「うるさい」
軽口をピシャリと制すると、彼女はポケットから注射器を取り出した。
そしてもう一方の手に握っていた小瓶の口に注射針を挿し、液体を吸い上げていく。
正体不明の謎の液体。少なくとも、ただの栄養剤ではないだろう。
「全部、貴方のせいよ」
量を調節するために、針の先から数滴液体を垂れ落とす。
微かに甘ったる臭いがしたが、すぐにかびの臭いにかき消される。
「殺せと言われたか」
「私が生きるためなの、恨まないで」
「別に恨みはしない。お前は、そういう女だからな」
「……そうよ、そういう女よ」
背後で覗き窓が開く音が聞こえた。
ヴィオラ越しにそちらを見ると、二つの目が中をのぞいていた。
ヴィオラがちゃんと仕事をするか。様子を見ているつもりらしい。
ヴィオラは俺の一歩近づき、まるで抱きつこうとする様に腕を伸ばしてくる。
「……夜まで待ってて」
ヴィオラが耳元で呟いた。
瞬間、彼女は注射器を袖の下に隠してあった、別の注射器にすり替えた。
瞬く間の交換。背後の監視もどうやら気付いていないらしい。
ヴィオラはその注射器を俺の首筋に刺した。
その途端、息苦しさと目眩が俺を襲った。
「一時的に貴方の心臓を止める。後で迎えにくるわ。その時まで、我慢してて」
ヴィオラの声が遠くに聞こえた。
彼女は背中を向けて、扉の方へと向かっていく。
「終わったわ。運んでちょうだい」
ヴィオラが言うと、ドアが開き2人の男が入ってきた。
顔は、視界がおぼろげで確かめることができない。
縄をほどかれ、両腕を持たれる。
引きずられる様な感覚を最後に、意識がプッツリと途絶えた。
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