五章
5-1
鬱々とした気分というのは、時間を長く感じさせる。
緊張、不安、後悔、そのほかマイナスに作用する様々な感情。
想像力という魔法による影響は、じわりと思考と体を蝕んでいく。
馬車に乗って数時間。
朝を迎えてからも、俺の気分は晴れることはなかった。
宿で一泊した後。馬車は真っ直ぐにカタリナの実家。ビルゲート家へと向かっている。
広々とした車内。
俺とカタリナは、向かい合って座っている。
会話はなかった。
窓の外を見たり、俯いたり、本を読んだり。
互いに視線をまじ合わせないまま、長い旅路を過ごしている。
カタリナはどうかはわからないが、俺はこの沈黙が唯一の救いに思えた。
不安を吐露する機会もない。
詮索という手段もない。
彼女は彼女のまま。
俺も俺のまま。
それぞれが退屈な時間を、個人の為に費やせる。
これがあった為に、俺は不安を客観的に見るだけの、余裕を産むことができた。
馬車は緩やかに速度を落とした。
道の先は二つに分かれている。
右に向かえば田舎町がある。
左の道は、小高い丘へ続いている。
馬車は左へと進んだ。
道の先には、デルマという小さな村がある。
村の近くには湖、周囲には森林がある、自然豊かな場所だ。
そしてジョナサンが気に入っている、避暑地でもあった。
夏に入ると、彼は家族を連れてここへとやってくる。
そして熱い盛りが終わるまで、ここで時間を過ごすのだ。
丘を越えて道なりに進んでいく。
デルマの街が見えてきた。
村には10軒ほどの民家が点在している。
住民のほとんどは農民だ。
湖での漁と牧場で生計を立て、細々と暮らしている。
何人かの農民とすれ違うと、馬車は右に降る坂道を進んだ。
ジョナサンの別荘は、湖のすぐ近くにあった。
別荘と言っても、そんな大層な構えはしていない。
二階建ての木造一戸建て。
漁師小屋として利用されていた廃墟を、ジョナサンが買取、住居に作り直したのだ。
緩やかな坂を下り、馬車は停車する。
先にカタリナが降りた。その後に続いて、俺も降りる。
水気を含んだ涼しい風が頬を撫でた。
見れば、庭で使用人らしき男が、作物に水をかけていた。
男は俺たちに気付くと、麦わら帽を取って、頭を下げる。
カタリナは軽く手をあげて応えると、玄関へと向かった。
ドアを押し開けると、
「ただいま」
やや声を張って、中に声をかけた。
すると、奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
やってきたのは、給餌服を身につけた、壮年の女性。
彼女はアレックス・ジェローム。
ビルゲート家に長く使える、使用人だ。
「ただいまアレックス」
「奥様が首を長くして待っておられましたよ。お荷物、お持ちいたしますね」
アレックスはするりと手を伸ばし、カタリナの鞄を受け取る。
「ありがとう」
「いえ、これが仕事ですから」
アレックスは柔らかく笑みを浮かべる。
そして、その笑みのまま、俺の方へ顔を向けた。
「フランコ様、旦那様が書斎でお待ちになっております」
「わかりました。ありがとうございます」
「後ほどお飲み物をご用意いたしますが、何かご要望はございますか」
「いえ、特には」
「かしこまりました。……お嬢様。お部屋の方へ参りましょう」
アレックスはカタリナの手を取ると、彼女を連れて階段の方へと歩いていく。
彼女の私室は、客間を二つ挟んだ奥の部屋。
昔と様子が変わらなければ、窓から湖を見渡せる、見晴らしのいい部屋だ。
「手を引かなくても、自分で歩ける」
カタリナは不満げにアレックスに言っているが、彼女は何のその。
微笑みを浮かべて、楽しそうに階段を上がっていく。
カタリナは彼女の顔を見て、文句を言う気もうせたらしい。
階段の途中でこちらを見ると、仕方がないとばかりに、肩をすくめた。
アレックスにとっては、カタリナは娘のようなもの。
幼い頃から世話を焼き、成長を見守ってきた。
彼女にとっては、カタリナの帰省は待ちに待ったことなのかもしれない。
二人の背中が二階に消えた。
それを見送った後、俺は一階の廊下を進んだ。
ジョナサンの待つ書斎は、廊下の突き当たりにある。
部屋の近くに来る。
そして、静かにノックをする。
「ジムか」
ジョナサンの声が聞こえてきた。
「はい」
「入れ」
「失礼します」
酒瓶と本。それに古い地図。
ガラクタが詰め込まれた箱、箱。
書斎と言うよりは、物置に近い。
「久しぶりだな。ジム」
ドスの効いた低い声。
くすんだ金髪。
獰猛そうな、鋭い目つき。
金持ちらしくない金持ち。
貴族らしくない貴族。
騎士らしくない騎士。最低の資産家。
無精髭を無骨な手で撫でる彼こそ、ジョナサン・ビルゲート。
俺が殺し損ねた、大の恩人であった。
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