3-7
俺の言葉を審判が理解できるのに、数秒。
理解したものの唖然として、勝敗の判断をするまでに数秒。
唖然と納得をして、呆れ顔で決着をつけるまでに、数秒。
俺の降参と実際に認可されるまでに、やく1分ほどの間があった。
だが、確かに勝敗は決せられた。
俺の、敗北である。
大怪我を負った勝者と、無傷の敗者。
勝者と敗者とが真逆の結果。
そのせいで観客や審判、さらにはカタリナでさえも、結果を認めるのに、時間がかかっているようだった。
だが、審判が決定を下した以上、覆ることはない。
長居は無用。敗者は、去るのみだ。
「早く医務室へお向かいなさい。適切な処置をすれば、怪我は時期によくなるでしょう」
俺はカタリナに言う。
「どう言う、ことだ」
いまだに状況の理解が追いついていないのか。
彼女の顔には動揺が浮かび、不可解げに眉間に谷間ができている。
「自分が降参した。それだけのことです」
辞去の意思と彼女への謝罪の気持ちをこめて。俺は頭を下げる。
そして踵を返したのだが、服の袖をカタリナにつかまれた。
「なぜ降参したんだ。貴方は、負けたわけじゃないだろ」
「貴方を殺人者に仕立て上げてまで叶えたいほど、自分の願いは価値のあるものではありませんから」
「殺すだなんて、そんな……」
「貴女はそう思っていなかろうと、貴女の無意識は殺人者の片鱗に触れた。これ以上続ければ、怪我だけですまなくなります。自分も、貴女も。……教育の現場に、死体は似合いませんよ。それでは、失礼します」
背中を向けたまま会釈をして、出口へと向かった。
俺と入れ違いになるように、白衣をきた学校医たちが、彼女のもとに歩いていく。
間も無く、彼女は医務室へと連れて行かれるだろう。
傷口の縫合。さらに砕けた肩の治療。
全治3週間。あるいは、それ以上か。
入院は短いとは思うが、しばらくは包帯の取れない生活を送る羽目になるだろう。
闘技場を出ると、そのまま外に出た。
西に傾いた太陽が、校舎の上から見下ろしている。
目の前を歩いていく大人と、子供たち。
保護者家族、あるいは親戚。
誰かもしれない子供の、あるいは教師に近しい人間たちばかり。
人混みに紛れるように、また抗うように。
俺は彼らの中に混じり、人の流れを遡る。
向かったのは、校舎の裏側。
小さな庭園。
いくつかの白いベンチ。
楠が空に伸び、緑の手で空をつかもうと、大きく広げている。
樹齢は数百年。
この学校ができるより、遥か昔からここに生えている。
いわば、この学校、この土地の長老だ。
自然を残し、その偉大さと長い時間を感じてもらいたい。
そういう人間の勝手な理想。
勝手な感傷によって伐採を免れた。
普段からここには人気はない。
今日も、数人の大人たちがいるだけで、表の喧騒とは別世界のようだった。
ベンチに腰を下ろし、くすのきを見上げる。
疲れはなかった。ただ心労が、少し積もっただけ。
だが、もうひとつの予定よりか、カタリナとの戦闘の方が、荷が軽かった。
「面白い戦いだったわよ」
面倒なことがやってきた。
顔を向けると、石畳を踏んで女がやってくる。
ヴィオラだ。
黒いスラックスに、赤いシャツ。シャツの上から、黒いジャケットを羽織る。
ヒールを鳴らして俺の前にくると、俺の隣を見て、
「座っていいかしら」
返事はしなかった。
ヴィオラは肩をすくめて、俺に許諾を得ないまま、隣に腰を下ろした。
「誰なの、あの子。ずいぶん気にかけていたみたいだけど」
「お前に関係はない。無駄な詮索をするな」
「もしかして、貴方の新しい恋人?」
「詮索はするな。そう言った大路」
「そんな怖い顔をしなくたって」
ヴィオラは笑いながら、ポケットから封筒を取り出し、差し出した。
「報酬よ。受け取って」
茶封筒の厚さは、それなりにある。
札束が一つ、あるいは、二つ。
相場に合わせた妥当な金額が、そこにしまわれているはずだ。
「受け取るのは、気が引ける?」
ヴィオラが俺の顔を覗き込む。
「これは仕事に対する正当な報酬よ。仕事に金を払うのは、当然のことでしょ」
「俺は、金のために仕事をしたわけじゃない」
「これはあくまでも体裁を作るためよ。仕事を全うしたそのことに対してのね。じゃなきゃ、仕事はまだ終わってないってことで、面倒がつきまとっちゃうわよ?」
俺はヴィオラをにらんだ。
「にらんで何かが変わるかしら?」
ヴィオラは頬を歪め、駄々をこねる子供を見るように、おかしそうに笑った。
「……いや、何も変わらないな」
引退後だからか。
それとも彼女との会話は、はじめから体力を使う、もしくは使っていたからなのか。
ため息をつくと、俺の両肩に何段もの疲れがのしかかったような気持ちがした。
封筒に手を伸ばし、掴む。
俺が金を受け取ったのを見ると、ヴィオラの手はするりと落ちて、俺の膝に置かれた。
「器用になったのね。昔の貴方だったら、手加減だなんて言葉も知らなかったのに」
「殺しはこの場所にはふさわしくない 。それだけだ」
「それは演技なの。それとも本心から、そう思っているの」
「本心からだ」
「だとしたら、驚くべきことね。空っぽの貴方の中に、思慮深さが生まれるだなんて」
「お前には関係な……」
言葉を遮るのに1番手取り早いのは、口を塞ぐことだ。
嫌味たらしい言葉を呟こうとした俺の口は、ヴィオラのその、口によって塞がれる。
柔らかな赤い唇が、かさついた俺の唇に当たる。
数秒の静止。温もりは離れ、戸惑いが尾を引いた。
「隙だらけだし、弱っちくなっちゃって。でも、昔より魅力的よ。今の貴方」
「……からかうのは、よせ」
「からかってないわよ。私は」
ヴィオラが顔を覗き込む。
「貴方は私との関係は終わったって、思っているかもしれないけど。私はそうは思ってないわ。私はいつだって……」
「これで最後だからな」
ヴィオラの手のひらから逃げるように、俺は腰を上げて、彼女の背中を向けて歩き出す。
「貴方を、忘れたことはないわ」
風に乗って聞こえたヴィオラのささやき。
聞こえないように、いや、聞こえないふりをして。
この上ない居心地の悪さと、惨めさを抱いて。
楠の下。
驚きと戸惑い、それ以外の何かの思いに蓋をして。
俺は足早に、ヴィオラの下から立ち去った。
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