3-5
カタリナに、二つの感情がもたらされた。
一つは、興奮。
殺し屋というジムの異様な経歴。
それに裏打ちされた、彼の実力をこの目で見ることができる。
一つは、恐怖。
静かに、しかしありありと感じた殺気。
彼女は初めて、ジムに対して恐れを抱いた。
彼女を突き動かしたのは、恐怖だった。
向かってくるジムから、弾かれるように後退する。
さっきまで彼女の頭があった場所。
そこに、きらりとひかる何かが通り抜けた。
ジムの握ったナイフの一閃だ。
彼は的確に、さも当然のように。
表情を変えることなく、首を狙ったのだ。
冷たい手が、カタリナの背筋を撫でる。
ジムは本気だ。
本気で、私を殺しにきている。
それまで遠くに感じた死が、すぐ隣に立って肩を組んだ。
訓練では感じたことのない、強烈な震えと寒気。
感じながら、カタリナはふるわれるナイフを受け止めた。
硬い音。
重い一撃。
振動が両手に伝わり、痙攣がさらにひどくなる。
二撃目は、受け止めた時点で始まっていた。
ジムの蹴りが、カタリナの足を払う。
痛みと同時に体が傾く。
カタリナの顔が苦痛に歪む。
だが、痛みにかまけている暇はない。
すぐに、ジムのナイフが振り下ろされた。
避けられる時間はない。
覚悟を決め、利腕でない左腕をナイフの軌道上に差し出した。
筋肉に、異物が侵入する感触。
それは、鋭い痛みとともに、やってきた。
彼女の腕から、ほとばしる鮮血。
唇を噛んで痛みを堪えると、剣で反撃を試みる。
が、そこにジムの姿はなかった。
剣は空間に弧を描き、空を切り裂く。
ナイフを腕に突き刺したまま。
ジムはカタリナの肩に置いた右腕を支えに、逆立ちをしていた。
化物じみた、バネだ。
痛みでまぶたを下ろした、その一瞬のうちに、そんな芸当をするなんて。
ジムの体重が、左肩にのしかかる。
骨の軋む音が、鼓膜の奥に響いた。
苦悶に歪むカタリナを尻目に、ジムはカタリナの背後に着地する。
振り返るのが一瞬遅れた。
その代償は、激痛だった。
ジムの肘が、カタリナの肩に振り下ろされる。
嫌な音が、骨の外れる音が聞こえてきた。
カタリナは嗚咽と共に口を開き、やけくそに剣を背後に振る。
ジムはすぐさま後退。
彼女の剣はまたしても、空を横切っただけだった。
「まずは、左腕です」
観察した物体の状態を、無感情に記録するように。
ジムはカタリナにわざわざ、報告した。
彼の無感情の目が、カタリナを見つめている。
「次は左足を。その次は右足、最後に、右腕を壊しにかかります。これ以上の痛みが嫌であれば、降参された方がよろしいかと」
「私を、気遣っているつもりか」
「ええ。そうです。これ以上の気遣いは、現状、自分の小さな灰白質では、捻出することはできません」
カタリナは笑った。
確かに、殺すだけならそんなことなんて言いはしないだろう。
これ以上ないほど、彼は私を思ってくれている。
カタリナは腕に刺さったナイフを握り、抜き取る。
流れる血が砂に染み込み、赤黒く砂を染める。
ナイフを投げすてると、刃が砂の中に埋まった。
「でも、貴方も不利になったんじゃないか。せっかくの武器が、なくなってしまったぞ」
「武器がない方が、無用に血を流さずにすみますから。それはそれで、結構なことかと」
「私を、侮っているのか」
「いいえ。武器があろうとなかろうと、自分がやろうとしていることに変わりはありません。それに、武器がなかろうと、ルール上は構わなかったはずです」
ジムは確かめるような視線を、審判に送った。
審判は困った顔をしながら、その通りと言うように、肩をすくめた。
「今はご自分の身を守ることに、集中なさってください」
「それは、貴方にも言えることだろ」
「貴女さまに傷をつけられてから、考えますとも」
「言って、くれるじゃないか」
膝をつくわけにはいかない。
まだ、腕を一本壊されただけだ。
戦える。まだ、やれる。
剣を握りしめたカタリナは、ゆらりと右へと体を降り、踏み込む。
痛みを頭から消し去ると、ただ切ることのみに意識を集中させる。
剣を振る。
狙うは、ジムの首。
鋭い閃光は、ジムの首をかすめた、かに見えた。
だが彼は、わずかに体を逸らし、カタリナの一閃を避けて魅せる。
カタリナは尚も追撃に出るが、視界が回転する。
ジムが彼女の足を、蹴りですくったのだ。
彼女は背中を強かにぶつけ、息をつまらせる。
思考が飛んだ、その一瞬。
怖気が、彼女の首に痛みの刃を当てた。
痛みの予感、というやつかもしれない。
カタリナはすぐさま横に転がる。
すると、彼女の右足があった場所に、ジムの厚い靴底が降ってくるのが見えた。
「ほう」
彼女の回避にジムは簡単のため息を漏らす。
カタリナはすぐに立ち上がり、ジムと距離を開けた。
彼は、追撃してはこなかった。
あくまでも、カタリナがやってくるのを待っている。
舐められたものだ。
そう思った。
だが、すぐに違うと気づく。
彼は、必要がないことは何もしない。
行動を起こすのは、その必要性を認めた時のみ。
ジムが動かないのは、必要がないから。ただ、それだけ。
カタリナに対する侮りなどは、おそらく存在しない。
では、彼が必要としているものは何か。
答えはわかりきっている。
この戦いを終わりにしうる、降参という短い言葉。
それを、彼は待っている。
そのために彼は必要以上に動かないし、攻撃をしない。
最初に動いたのは、カタリナに恐怖を与えるため。
これ以上戦えば、自分の身がどうなるか。
それを痛みと、体験とで味合わせた。
なるほど、怖い男だ。
そして、優しい男だ。
わざわざご丁寧に、次の攻撃場所を教えてくれる。
彼はおそらく恐怖を助長するために、言ったのだろう。
だが、考えればそれは考えれば、それ以外の場所は無事だということ。
痛みを堪えれば、まだチャンスはある。
ジムの度肝を抜き、あの鉄仮面を剥がすチャンスが。
必要になるのはタイミングと、そして覚悟。
カタリナは大きく息を吸い、吐き出す。
「……やってやる」
覚悟は、決まった。
あとは、やるだけだ。
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