2−3
午後10時23分。
月明りもない、真っ暗な夜の闇。
その中にポツリと灯った店がある。
ゲラルドの腹。
ジョッキを握る太った赤ら顔の男の絵が、この店のシンボルだった。
その店の前に、二人の男が立っている。
彼らは店主ゲラルドに雇われた、この店の警備員だ。
一人はロットン・ハーバー。
もう直ぐ五十の誕生日を迎える、ベテランの警備員。
ゲラルドとの付き合いは長く、二十年来の親友だ。
「……今日も無事に終えられそうだ」
手にした懐中時計を見下ろしながら、ロットンは頬を緩めた。
警備員として勤続15年。
酔っ払い同士の喧嘩を除けば、これと言って血を見る機会もない。
若いころとは比べなくともわかる。
平凡で、平穏な警備員生活だ。
昔はこんな生活なんて、つまらないと思っていた。
だが、いざなってみると、何といい生活だろうか。
鉄火場に繰り出すこともない。
鉄砲玉になる必要もない。
時間通りの職務をこなし、家族の元へ帰る。
そんな当たり前の生活が、何とも心地よく感じた。
懐中時計をしまい、眠気覚ましに頬を叩く。
勤務時間の終わりまで、あと数十分。
しっかりと職務に励もう。
気分を入れ替え、再び職務に集中する。
ふと、人の気配がした。
視線を遠くに向けてみると、通りの向こうに人影が立っていた。
顔は夜の闇に隠れてわからない。
ただ、背格好からどうやら男のようだと、ロットンは思った。
人影は間も無く歩き出し、店の方へ近寄ってくる。
どうやら新しい客らしい。
ロットンはドアノブを握り、その男がくるのを待った。
硬い靴音を連れて、男が直ぐそばまでやってきた。
「いらっしゃいませ……」
ロットンが迎え入れようとした矢先。
彼の首元に、冷たいナイフが突きつけられる。
ロットンは驚いたが、動揺はなかった。
争いから身を引いたとはいえ、場数によって鍛え上げられた胆力は、この程度では動じない。
だが、男の顔を見た時。
ロットンも思わず目を見開いた。
「ジャック……」
「久しぶりだな。ロットン」
「お前、今までどこに」
「俺のことはどうでもいい。それより、ここの酒場にドミニクという男がいるはずだが、知っているか」
「ああ。知っている」
「どこにいる」
「どうするつもりだ」
「説明する必要があるのか?」
ジムはナイフをロットンの首に押し付ける。
「……いや、ない」
冷たい汗を感じながら、ロットンは首を振った。
「入口はここだけか」
「いや、裏口がある。そこからなら、ゲラルドに鉢合わずに入れるはずだ」
「ゲラルド?」
「この店の店主だ」
「警備員は」
「俺だけだ」
「ドミニクがいる部屋は」
「二階の突き当たりの部屋だ。女と一緒のはずだ」
「そいつの連れか」
「いいや、娼婦だ。名前はミシェル・フーリー。ここらへんで立ちんぼをしてる。いい奴なんだ。あいつには手を出さないでくれ」
「約束しよう。……すまなかったな」
ドミニクの拘束を解くと、ジムはすぐさま裏口へと回る。
「なぁ、ジャック。教えてくれ」
首がまだつながっていること。
自分がまだ生きていることを確かめつつ、ロットンは言った。
「お前、復帰したのか」
「……いいや、今回だけだ」
振り返ることなく返事を返し、ジムは建物の影に消えていった。
「ドミニク・サンチャゴ。こいつを消して欲しいのよ」
ヴィオラから渡されたのは、一枚のくたびれた写真だ。
被写体は一人の男。
カメラに視線を向けていないから、おそらくは盗撮だろう。
細面の顔。顎髭。
肩頬には火傷の跡がついている。
「誰だ。この男は」
「たちの悪いチンピラよ。児童誘拐、人身売買、薬の売買まで幅広く手をつけてる。殺して欲しい理由は、こいつの覗き癖のせいで、知らなくていいことまで知ってしまったから」
「知らなくていいこと?」
「私のクライアントの、個人的な秘密。貴方のことだから深くは聞かないでくれると思うけど、ちょっと外に漏れると厄介なタイプの話なのよ」
「その厄介な秘密を、どうしてこいつが知ることになった」
「こいつ、チンピラのわりに浮浪者の面倒を見ていてね。浮浪者の目と耳を使って、情報を手に入れているってわけ」
「で、そいつの耳に秘密が引っかかったと」
「そういうこと」
写真の男を見る。
男の人相。特徴。衣服。
記憶の中にドミニクを焼き付けると、写真をヴィオラに返した。
「週末にゲラルドの腹って店に入り浸っているわ。習慣的な行動ってやつね。狙うなら、その時がちょうどいいかも」
「なぜ俺にやらせる。俺でなくても、できる仕事だろ」
俺が言うと、ヴィオラの唇が歪んだ。
彼女は人差し指を空に向けて、くるくると円を描く。
「貴方も知っての通り、人材はいつの世も少なくってね。今のところ手の空いている人がいないのよね。それが一つの理由。もう一つは……」
指を止めて、俺の胸を指差した。
「貴方の仕事を、もう一度見たくなった。これが一つ」
「身勝手だな」
「嫌なら断ってもいいのよ」
「誰も断るとは言ってない」
「なら、お願いね。報酬は、金貨で払うわ。あの頃と同じようにね」
ヴィオラはベンチから立ち上がると、
「それじゃ、私はもういくわね。また近いうちに会いましょ」
肩を叩いて、校舎の方へと歩いて行った。
「……俺は会いたくはないがな」
ヴィオラの背中を見送りながら、しみじみと、そう思った。
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