2−2

「お前の知り合いか、あの美人」


 フィリップが呑気に口笛を奏でる。

 だが、俺は彼のように構えることは、とてもじゃないが、できなかった


 ヒールの音が近づいてくる。

 何の気もなしに。

 緊張もなしに。

 彼女はあの日のまま。

 色香と、まとわりつくような殺気を身につけて。

 悪夢のようだ。

 そして、悟った。

 過去の幻影が、俺の影をついに捉えたのだ。


「元気そうでよかったわ。ここで働いていると聞いた時は、びっくりしちゃった」


 ヴィオラの頬が歪んだ。

 いつになく、上機嫌のように見える。

 いや、それすらも彼女の仮面かもしれない。

 彼女があの頃から何ら変わっていない保証はないのだ。

 自分の彼女に関する記憶など、何の当てにもならない。

 

「……俺は、お邪魔かな」


 そこへきて、フィリップの発言だ。

 多少なりとも緊張していれば、呑気にそんな口は叩けない。

 だが、彼は何も関係がないのだ。

 もしも彼女の正体を知っていたら、鼻の舌を伸ばすより、距離をとる方を選ぶに違いない。

 

「はじめまして。ヴィオラ・レジーヌです」


 ヴィオラはフィリップに体を向ける。 

 そして、微笑みながら、右手を彼へと差し出した。


「これはこれは、ご丁寧にどうも」


 ヴィオラの手を握ったフィリップは、わかりやすく、顔の筋肉を緩めた。


「こいつとは、お知り合いで」


「ええ。昔、一緒に働いていたことがあるんですよ。同じ職場でね」


「なるほど、同じ職場」


 フィリップの好奇心が、手に取るようにわかる。

 まさか、ヴィオラは喋る気か。

 俺は内心焦ったが、フィリップは詳しく突っ込まなかった。


「なら、積もる話もあるでしょうし。自分は席を外しておきます。……道具は置いておくから、終わったら呼んでくれ」


 残った芋団子を口に放り込み、ベンチから立ち上がる。

 そして、俺の横を通り過ぎる間際。

 俺の肩に手を置いて、


「お前の彼女について、あとでじっくり聞くからな」


 と、去り際に言い残していった。


「それじゃ、どうぞごゆっくり」


 ヴィオラににこりと微笑むと、フィリップは早足でその場を離れていく。


「彼、いい人ね」


 彼の背中を眺めながら、ヴィオラが言った。

 

「どこから俺の居場所を知った」


「貴方が倒した誘拐犯から。感謝しなさいよ。貴方の存在を公にしないために、私が手を回して上げたんだから」


「何をした」


「私がやることなんて、わかりきってることじゃない」


 確かにわかり切っている。

 この女の周りには、死体と血溜まりしか残らない。

 体に染み付いた血の匂いは、いくら洗い流そうと、簡単に取れる物じゃない。


 ふと、脳裏にさっきの新聞の記事が思い浮かんだ。

 留置所内部で起きた惨劇。

 その中には、誘拐犯たちがいたはずだ。


「留置所で暴れたのは、お前か」


「私は何もしてないわよ。ただお使いにいかせた人間が、ちょっと派手にやってくれただけ。私も新聞で見て、びっくりしちゃったんだから」


「殺させておいて、他人事か」


「他人が知らないところで、死んだだけよ」


 ヴィオラは言いながら、ベンチに腰を下ろした。


「何しにきた」


「恋人の懐かしい顔を、ちょっと見にきただけよ」


 ヴィオラは肩をすくめる。

 油断などできるはずはない。

 この女は、ノスタルジーに惹かれて行動するなんてことは、絶対にしない。


 彼女が動くということは、何かの目的が働いていること。

 個人的か、組織的か。

 目的の発生源はどちらか。

 どちらにせよ、自分の立場は明らかに不利になっているのは確かだ。


「怖い顔ね。そんな顔を生徒たちに見せたら、みんな離れていっちゃうわよ。ジム・フランコさん」


「名前まで調べたか」


「もちろん、それとも前の名前で呼んだ方がいいかしら」


「やめろ。捨てた名前だ」


「私は好きだったけどな、ジャック・・・・切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーなんて、洒落たネーミングだったのに。もったいない」


「昔の話だ、ヴァイオレット・・・・・・・。今は違う」


「あら、私の名前コードネーム、憶えててくれたんだ。嬉しいわ」


 ヴィオラは嬉しそうに、頬を歪める。


「でも、そうね。あの頃と比べると、今はまるっきり違うわね」


 爪先から頭の天辺にいたるまで。

 ヴィオラの視線が上下に移動する。

 

「何だか、弱っちくなっちゃったわね」


「いいから答えろ。何をしにきた」


「もう。せっかちなんだから。……貴方に折いって頼みたいことがあるのよ」


「殺しか」


「簡単に言えば、そうね」


「断る」


「内容を話してはいないんだけど」


「俺はもう、お前たちの世界には関わるつもりはない」


「素人になるってこと。あれだけ暴れたくせに、わがままだこと」


「何とでも言うがいい。……用は済んだだろ。さっさとここを出ていってくれ」


「それはできないわね。ここで用事があるから」


「用事?」


「ちょっとした売り込みよ。今の私は、こういう肩書を持ってんの」


 ヴィオラは胸のポケットから、一枚の名刺を取り出した。

 

「警備会社?」


「ええ、貴方の同じく、私も鞍替えしたってわけ。事件があった後だから、警備を増強したいんじゃないかって思って来てみたんだけど」


「組織の息が、かかってるんだろ」


「さぁ、どうかしら」


「なら、そっちを優先させろ。俺は仕事に戻らせてもらう」


 この女に長く関わるのは、得策じゃない。

 無理やりだが、早いところここを離れるに限る。

 

「いいの。あんたのことを連中にバラしても」


 だが、ヴィオラが簡単に逃すわけもなかった。

 俺の足は自然に止まり、勝ち誇ったヴィオラの顔を見ることになった。


「私が教えてあげれば、喜んであんたを殺しにくるわよ。何たって、あんたのせいで組織も面子も潰されたんだからね」


 この女は、流石に抜け目がない。

 もしかすればと淡い期待を持っていたが。

 彼女に対する無意味な苛立ち。

 そして焦りから、俺はヴィオラを睨みつける。


「にらむだけじゃ無駄よ。そんなことじゃ引かないわよ。私は」


 無駄なことはわかってる。

 この場合、どうした方が手っ取り早いかも。


「依頼を飲んでくれたら、私は貴方のことを胸のうちに止めておく。もちろん、拒んでくれても一向に構わないわよ。その時は、秘密は公になるだけだから」


「……相変わらず、容赦がないな」


「恨むのなら、私を置き去りにした過去の自分を恨むのね。ジャック」


「ジムだ」


「そうそう、ジムだったわね。ごめんなさい、まだ呼び慣れてなくて。……で、どうするの。急かさなくても、貴方のことだから。とっくに答えを決まってると思うけど」


 やはり、殺しておくべきだった。

 愛情などというものを、この女に一抹でも持ってしまったことが、失敗だった。


「……話してみろ」


「そうこなくっちゃ」

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