二章
2−1
俺が部屋に戻った時、フィリップがまだ椅子に座っていた。
「やっぱり帰ってきたか」
ニヤリと笑った彼は、立ち上がり俺の前にやってくる。
詳しい事情を聞かれるかと覚悟したが、彼は何食わぬ顔で、作業衣を俺の胸に突きつけてきた。
「仕事だぞ。支度をしとけ」
俺が作業着を受け取ると、フィリップはニヤリと笑い、肩を叩いた。
「事情は、聞かないのか」
通り過ぎようとする彼に、そう尋ねないではいられなかった。
「戻ってきたってことは、辞めないんだろ。だったら、それでいいじゃねぇか」
「お前は、それでいいのか」
「お前が金を払ってでも聞かせたいってんなら、別だがな」
フィリップは肩をすくめて、止めていた足を動かす。
「さき行ってるぞ。あんまり遅れるなよ」
ひらひらと手を振りながら、フィリップの背中が離れていく。
俺はドアの前に立ったまま、彼を見送るしかできなかった。
それから、二週間が過ぎ去った。
誘拐騒ぎは当然のことながら、学校の話題を集めた。
そして、その余波は外へと向い、保護者たちに不安のタネを撒いた。
被害にあった少女たちの両親はもちろん。
学校に籍を置く子供の、およそほとんどの保護者たちが、連日学校に連絡をよこしている。
教員たちは授業のほかに、その対応に追われる羽目になった。
庭師として彼らを見ていたが、日に日に疲弊してくのが、よくわかった。
だが、幸運なことに、事実は次第に風化する。
好奇心も次第に薄れ、不安の芽も枯れていった。
フィリップと俺は、相変わらず枝を切ったり、芝生を整えたりしている。
数年ぶりの実戦の興奮は、すでに体から抜けている。
今あるのは、平穏への安堵。
そしてこれ以上の混乱がないようにとの、祈りだけだ。
「おい、そろそろ飯にしようや」
フィリップは土で汚れた軍手の甲で、汗を拭う。
彼の頬は土の色に汚れるが、彼は別段気にした様子はない。
手に握った雑草を地面に集め、俺たちはベンチへと向かった。
そろそろ夏の蒸し暑さがやってくる。
噴水の周囲は、俺たちにとって絶好の避暑地だった。
フィリップは深く息を吐きながら、腰を下ろす。
背もたれに背中を預けると、空を見上げ、またため息をこぼした。
「ため息ばかりだな」
「こんなクソ暑い中やってれば、誰だって吐きたくなるさ。お前の方が異常なんだ。涼しい顔をしやがって」
「していないぞ」
「うるせぇ。してるんだよ、馬鹿」
ポケットに手を突っ込む。
取り出したのは、くしゃくしゃになったタバコのソフトパックを取り出した。
「校内禁煙だぞ」
「ここのどこが、
視線をあたりに巡らせて、フィリップが俺を見る。
「へりくつだな」
「理屈はあるんだから、いいだろうが」
細長い紙巻をパックから取り出して、口に咥える。
どうやら、最後の一本だったらしい。
パックを握り潰し、ポケットに乱暴に突っ込んだ。
ライターで火を点け、これみよがしに、深く吸い込む。
「そういや、これ知ってるか」
紫炎を吐き出しながら、フィリップが腰に指した新聞を見せた。
「今日のやつだ。警察内部で殺人が起きたらしい」
「内部で?」
「そう。夜間のうちに留置所内に何者かが侵入。留置所内にいた男女含めて、皆殺しだとさ。おっかないねぇ」
新聞の大見出しには、フィリップの話通りの事件が載っていた。
留置所内にいた男女八名が死亡。
監視員二名は重傷を負い、現在病院に入院中。
犯行は深夜。
警備もろとも、留置所内部を地獄に変えた。
「その中には、例の誘拐犯の仲間もいたらしい。あいつらも、運がないこった」
「そうか」
深夜の惨劇。
話にしてみれば、それだけのことだ。
センセーショナルさはあるが、これもまた数日も経てば、忘れ去られる事実に過ぎないだろう。
「どうしてそんなことを話す」
「話の種にでもなればと思っただけだ。悪かったか」
「いや、別に」
フィリップに新聞を投げ渡し、俺は彼の隣に腰を下ろす。
「世の中、物騒になったもんだな」
「物騒になっていない世の中などあるものか。あったとすれば、それはただ物騒が表面に出てこなかっただけのことだ」
「冷めてるなぁ。顔だけでなく頭まで冷めてやがる」
「だから、そんな顔なんて」
「いいっていいって。所詮自分のことなんて、自分じゃわかりっこないんだからよ」
「なんだ、その言い草は」
「全治全能の神のみが、その深淵の謎を知り、己を語ることができるのさ。俺たちのようなただの人間には、自分である人間という存在すらも、永遠の謎ってこと」
「無神論者だろ、お前」
「無神論者が神を語るな、なんて誰が言った。言論の自由だよ。いい響きだろ」
短くなったタバコを足元に捨て、踏み消す。
それからようやく、持参した昼食に目をやった。
昼食は紙に包まれている。
中には、練った芋の間に、肉とチーズが積められた芋団子が入っている。
売店で新たに発明された、珍妙な料理。
しかし口にしてみれば、意外と上手い。
「よく考えつくもんだ。この料理を生み出した思考もまた、永遠の謎だな」
フィリップの無駄口に構うことなく、料理を口に運んでいく。
その時だ
正門の方から馬の足音が聞こえてきた。
見れば、一台の馬車がやってきていた。
馬車は門をくぐり、校舎の前に止まる。
馬車のドアが開く。
降りてきた女を見て、俺は思わず立ち上がった。
「おい、どうした」
フィリップが心配そうに声をかけてくれる。
だが、返答する余裕はなかった。
黒いタイトなドレス。
背中に流れる赤い髪。
俺と目を合わせた女は、翡翠の瞳を歪め、笑みを浮かべた。
久しぶりね、元気にしてた?
女の、ヴィオラの唇が、そう囁いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます