1−8
世間の中にはその場所、その人間にあった世界がある。
資産家には資産家の世界が。
一般市民には一般市民の世界が。
犯罪者には犯罪者の世界が。
社会がどれだけ発展しようと、その世界は変わらずに存続を続ける。
そこはちょうど、犯罪者と市民とが介在する場所。
もっとも、普通の市民は一切立ち寄ることはない。
何かに追い詰められた、もしくは何かに追い立てられた市民がやってくる。
いわば、彼らの最後の居処。
最低の逃げ場所だった。
風化した看板の下にある、古いドア。
来店を告げるベルが鳴る。
入ってきたのは、一人の男。
彼というのは、カタリナにナイフを突きつけた男。
警察の追手がかかる前に、仲間を捨てて一人逃げ延びたのだった。
「酒をくれ」
店には店主と女以外に、人の姿はない。
男はカウンターに腰を下ろすと、用意されたブランデーに手を伸ばす。
疲れた体に入り込む、度数の高い液体。
胃から迫り上がる熱。
背もたれに体をあずけ、深く息を、吐き出した。
最悪な日だ。
資産家、あるいは有力な人間。
そういう連中は、武力で訴えるよりも、まず金で解決する。
彼らの子供は、いわば宝の山。
金という自衛手段を迷わず使わせる、有力な素材だった。
学校は面子のために、大ごとにはしないはず。
そしてその親は、子供のためにあまりある金を用意する。
途中までは、思惑通りに進んでいった。
まさか、一人の男に、計画ごと思惑を破壊させられるとは、思いもよらなかった。
「最悪だ」
しみじみと感じるその言葉。
ポケットから残り少ないシガレットケースを取り出し、タバコを一本取り出す。
口に咥えて、ライターを探す。
「どうぞ」
ライターを握った手が伸びてきた。
視線を動かすと、いつの間にか女が男の横に座っている。
彼女はライターの蓋を開けて、火をつける。
火は男の口元へと近づけられ、タバコの先端をあぶる。
「誰だ。あんた」
えらい美人だった。
赤い長い髪、日焼けした肌。
薄いエメラルド色の瞳が、柔らかに歪む。
「たまたま偶然居合わせた客よ。あんまり貴方が疲れた顔をしてたものだから、少し気になったの」
「そりゃどうも」
口に紫煙を蓄えると、タバコの先端がみるみるしぼみ、黒ずみ、縮んでいく。
灰が落下する直前。
女の手が素早く動き、灰皿に吸い殻を受け止める。
「気をつけてよ。ここを汚すと、マスターが本気で怒るから。ねっ?」
カウンターの向こうにいる。メガネをかけたスキンヘッドの男。
彼はこの店の店主であり、それ以外の何者でもない。
女の視線を受けて、彼は肩をすくめた。
「で、何をそんなに怒っているの。お兄さんは」
「それが、あんたと何の関係がある」
「何も。ただ、興味があるのよ」
女の手には、グラスが握られている。
中には、泡立った液体が入っていた。
黄金色の、美しい液体が。
グラスに女の顔が映り込み、歪み、笑みを浮かべた。
男は迷ったが、喋っても構わない気持ちになった。
どうせここまでくれば、しばらくは警察の目をくらませる。
それに、この目の前に女に対して、少しいい格好をしたい気持ちもあった。
彼はありったけを話した。
計画の過程。
計画の実行。
そしてその中心には、常に自分がいた。
事実を夢想化し、自分の存在を言葉によって英雄化する。
素晴らしい物語だった。
女が現実へと引き戻すまでは。
「その妙な男というのは、どんな人なの」
男は苦い顔をした。
「よく知らん。ただジムって小娘が読んでいた」
「ジム……特徴は」
「銀髪。それに片目に傷を負っている。偉く戦闘に慣れているようだが、騎士のような戦い方じゃない。効率を重視した、殺しに慣れた戦い方だった」
男の発言に、女の目の色が変わった。
だが、男は気づかなかった。
脳裏に焼き付いた忌々しい、ジムという男。
彼の存在への怒りが、彼女への注意を散漫にさせていた。
「あの学校にあんな奴がいるなんて知ってたら、
「運が悪かったわね」
「全くだ。本当に、運がなかった」
残りの酒を飲み干して、たっぷりと酒気を孕んだ吐息を溢す。
「大変だったわね」
女の手が男の手の上に乗せられる。
目をびくりとさせて、男は女を見た。
妖しく光る翡翠の瞳。
赤い唇は艶やかに歪み、妖艶な笑みを浮かべる。
男の顔が緩んだ。
それは酔いのせいでもあるが、この女の色気に当てられたに違いない。
「ねぇ。あなたのお仲間も、彼の顔を見たのかしら」
「ああ。おそらくはな」
「お仲間は、今どこに」
「つかまった。今頃、留置所に打ち込まれてるだろうさ」
「そう。……マスター、悪いんだけど、席を外してくれないかしら」
マスターは目を細めたが、女が視線を合わせると、会釈をして奥へと下がっていった。
人目を避けなければ、できない行為。
男の胸が高鳴った。
ここまで運がなかったが、こんな美人とできるのであれば、何の文句もない。
「面白い話を聞かせてくれて、ありがとう。楽しかったわ」
「何、いいってことよ」
男は女の肩に手を回した。
女は拒まなかった。
ただ男のなすがままに、抱きしめられる。
均整のとれた細身の体。
胸に当てられる、女の柔らかな感触。
首から背中へ、背中から腰へ。
滑らかな曲線に沿って、女の体を堪能していく。
「お礼と言ってはなんだけど」
「なんだ」
「楽に、イカせてあげる」
「そいつは楽しみ……」
喉に言葉が詰まった。
それは男の意図したことではなかった。
何かが、外から何かが自分の胸に入り込んできた。
そのために言葉と息が、一瞬止まったのだ。
男は視線を女へ。
そして自分の体へと向ける。
自分の胸に、ナイフが刺さっていた。
「さようなら」
女が男の胸から離れる。
そして、男の胸に刺さったナイフが抜かれ、血の曲線が描かれた。
男は椅子から転げ落ち、ぴくりと体が跳ねる。
だが、起きることはなかった。
彼の命は血液とともに、外へ流れ出てしまった。
「店を汚さないでくださいよ。ミス」
マスターが戻ってきた。
そして男の姿を見て、深々とため息をこぼした。
「店を汚したついでに、掃除もお願いしていいかしら。男を運ぶのは、女の手じゃ無理があるから」
「こいつ、何かやったんですか」
「いいえ。ただ、ちょっと面白いことを知っていただけ」
「知っていたって、何を」
「昔の顔馴染みのことよ。とっくの昔に死んだと思ってたけど、あの人も案外しぶとかったみたい。これ、とっておいて。こいつの酒の分も、入ってるから」
ポーチに手を入れると、彼女は長財布を取り出し、二つの札束をカウンターに置いた。
「死者におごりますか」
「金を払わずに死なれたんじゃ、迷惑でしょ」
「全くですね」
マスターは金を懐に入れ、ため息をこぼした。
「お酒、おいしかったわ。またくるわね」
「今度は死体なしでお願いしますよ」
「もちろんよ」
ヒールを鳴らして女が出入り口へと向かっていく。
「その男に会いにいくんですか?」
マスターが言うと、女は手を降りながら、ベルを鳴らした。
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