1−6
校舎の階段を登りながら、俺は後悔を踏み締めた。
こんな惨めな思いを抱いたのは、組織を崩壊させたあの夜以来。
ジョナサンに思い切り殴られて以来だ。
けして娘のカタリナには、正体を明かしてはならない。
働いている間は、大人しくしていればいい。
ジョナサンとはそう約束していた。
だが、また彼を裏切ってしまった。
俺は階段を登り切り、三階の廊下を進んだ。
校長室と銘打たられたドアを、叩く。
「入りなさい」
ドミニクの声が聞こえた。
ドアノブをひねり、押し開く。
フローリングの磨かれた床。
灰色の壁。
壁沿いには、本が詰め込まれた書棚が二つ。
大きなクローゼットが一つ。
奥には机。机の背後には両開きの窓がある。
ドミニクは、窓を背にして椅子に座っていた。
「ああ。君か」
ドミニクは苦笑した。
「何か、私に用かね。もっとも、予想はつくが」
「私を、クビにしてもらいたいのです」
言いながら、俺はドミニクの方へ歩み寄る。
「理由を聞いても?」
「私の過去を、カタリナ嬢にお話ししました」
「そうだろうと、思ったよ」
黒革の背もたれに、ドミニクはそっと体を預けた。
背もたれは甲高い軋みをわずかに漏らし、彼の体を受け入れる。
「一人に秘密を話せば、もはやそれは秘密ではなくなる。意図しないところから、外に向かって広がっていくでしょう。ともなれば、私はこの学校にとっての、お荷物になる。名前も汚れ、もしかすれば学生たちの評判にもかかわるかもしれない」
「そうならないうちに、自ら消えようというのかね」
俺はうなずいた。
「君の言い分は理解できる。だが、ここをやめたとして、どうするつもりなんだ」
「ご心配はいりません。どうにかします。自分ももう、子供ではありません」
「それもそうだが。この件は、ジョナサンには、伝えないのかね」
「あの方に、これ以上、ご迷惑をかけるわけにもいきません。約束を破った上で、不しつけながら、不義理をさせていただこうかと」
「引き止められるのが、怖いのかね」
「……正直に言えば」
もしもジョナサンの元へ報告に行けば。
彼が何をするかは、想像するに難しくない。
約束を反故にしたこと、そして俺の体たらくに、一発二発は殴りかかってくる。
その上で、おそらく俺を許すだろう。
また一から、やればいい。
そんなに重く考えるな。
優しい言葉と、叱咤激励とで。
自分をまた、ここか。
もしくは別のどこかで働かせるに違いない。
厳しくも、優しい男。
だが、これ以上彼の優しさに頼るわけにはいかない。
たとえ偶発的な事故だとしても、けじめはつけなければならない。
「君が報告せずとも、私の方から彼の耳に入れることもできるぞ。あの男のことだ。君を見捨てるようなことは、絶対にするまい」
「ジョナサンには、世話になりました。ですが、私が本気で消息を断てば、いくら彼でも追ってくることはできないでしょう」
「殺し屋としての、本気かね」
「……ええ。そうです」
過去の自分を認めるのが、こんなにも苦しく思うことになるとは。
昔の俺であれば、考えもしなかったことだ。
「わかった。だが、すぐに答えを出す訳にはいかない。君の提案は、一度預かっておくことにする。それでもいいか」
「できれば、すぐに答えをいただきたいのですが」
「なんだ、もう発つ気でいたのか」
「ええ。早い方がいいと思いまして」
「まったく、君というやつは……」
ドミニクはまた、ため息をついた。
それは明らかに、呆れのためであることは、俺にもわかった。
「君のその生真面目さには、いつも驚かされるよ」
「皮肉に聞こえますが」
「意図しない皮肉だよ。あまり怒らないでくれると助かる」
「怒るなど。校長の気持ちも、わかっているつもりです」
「なら、君のわがままを気かされた、私の身にもなってくれ」
組んでいた両手を顔に押し付け、手のひらに息を吐き出す。
鬱憤、呆れ、それに気疲れ。
俺の提案に対する感情を、ドミニクは手のひらに吐きつける。
そして肩を落とすと、何かを吹っ切るように、机をパンと叩いた。
「君の後任を決めるため、時間がかかる。それまでの間は、ここを無断で出ることは許さない。それと、この件に関しては、やはりジョナサンの耳に入れておくほうがいいだろう」
「それは……」
「それを認めないのであれば、君の提案を聞き入れることはできない。いいね」
俺は閉口し、ドミニクの目をにらみつけた。
辞めると言って、彼の言い分を待たずに出ていくべきだった。
俺は、たった数分前の自分を、締め殺したくなった。
「数日ばかりは、かかるかもしれない。それは覚悟しておいてくれ。いいね」
「……ええ」
「よろしい。では、もう帰りなさい。昨日のこともあるだろうから、今日はもうゆっくり休むといい」
ドミニクの優しさが、恨めしかった。
自分を蔑ろにしてはいない。
しかし、彼の温情は真綿のように、しめつけてくる。
誰にもぶつけることのできない。
ぶつけるべき相手もいない、苛立ち。
悶々とする気分のまま、俺はドミニクに一礼し背中を向けた。
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