1−2
宿舎で一人、夕飯を取っていた時だった。
部屋の扉を、誰かが乱暴に叩いた。
「誰だ」
返事を返す前に、扉が開かれた。
入ってきたのは、フィリップだった。
よほど焦ってきたのか。
彼の額から玉のような汗が、流れていた。
「おい、大変だ」
「少しは落ち着いたらどうだ」
「落ち着いていられねぇよ。実はな……」
彼は勿体ぶるように、呼吸を整えにかかる。
二、三度。二回呼吸をした後に。
ようやく彼は、俺の部屋にやってきた訳を話した。
「カタリナ・ビルゲート。知ってるな」
「ああ。彼女がどうかしたのか」
「どうもこうもねぇよ。誘拐されたんだよ」
俺は、言葉を失った。
悪い冗談かと思った。
いくら貴族嫌いの男だって、言っていい冗談と悪い冗談がある。
だが、彼はその冗談は、真剣な顔のままだった。
フィリップは椅子を掴むと、自分の方へと寄せる。
そしてどかっと腰を下ろすと、表情を変えないまま、話を続けた。
「女子たちと一緒に街で遊んでいた時、数人の男に襲われたらしい」
「どうして、それを知っている」
「さっき女子が一人逃げてきて、教師に事情を話してたんだ。俺はたまたまそれを聞いちまってさ。お前に知らせようと思って、飛んできたんだよ。カタリナ嬢と仲がよかっただろ。お前」
「いや、別に」
「隠さなくてもいいさ。カタリナ嬢が、お前によく声をかけていたのは、俺も見ていたんだ」
フィリップは俺の肩を叩いて、慰めるように、頬を歪めた。
「無事に、帰ってくるといいな」
「ああ。そうだな」
そう願わないわけがない。
彼女が哀れな姿で戻ってくるなど。
考えたくもなかった。
じっとはしていられなかった。
フィリップがどれだけ慰めてくれても。
俺には安息をもたらしては、くれないのだ。
俺は跳ねるように、立ち上がった。
フィリップは目を見開いたが、構わなかった。
「女子が連れて行かれたのは、どこだ」
「一階の教室だが。それがどうした」
「様子を見てくる」
「様子って、何の」
「どこまで話が進んでいるのかだ。ここにいても、分かるものも分からない」
「それはわかるが、お前が行ったところで何の役にも……」
フィリップが言い終わらないうちに、部屋を出た。
彼の声が、廊下に響いている。
すまない、フィリップ。
内心で謝りながら、俺は廊下を進み、宿舎を出た。
庭師の宿舎は、校舎の裏手にある。
石畳の歩道を進み、表へと回る。
三階建の、レンガ造りの大きな建物。
その一階の、玄関横の教室に、明かりが灯されている。
窓にかけられたカーテンには、いくつかの影帽子が揺らめいている。
俺は玄関をくぐり、明かりのあった教室へ向かう。
ドアは、開かれたままだった。
中を覗くと、数人の教師が少女を囲んでいる。
少女は椅子に腰掛け、憔悴しきった顔を俯かせている。
教師の中に、よく知る男の顔がいた。
その彼を呼び寄せるため、入り口に程近い教師の、肩を叩いた。
「校長を呼んでくれないか」
俺を見た教師は、いぶかしげに顔をしかめた。
どうして庭師風情が、こんなところにいるのだろう。
偏見と悪意が、教師の目に微かに光った。
「呼んでくれるだけでいいんだ。それくらいなら、やれるだろ」
教師は鼻を鳴らすと、教師の輪の中へ入っていく。
そこから、一人の男を連れて、戻ってきた。
教師が捕まえたのは、この学校の長。
ドミニク・ウッドランドである。
「ああ、君か」
「今、いいですか」
「こんな時にか?」
「ええ。すぐに」
ドミニクは、ため息をついた。
明らかに、呆れている様子だった。
だが、彼とて俺が何をしにきたのか。
それを分からないはずはない。
「……彼女のことを、よろしく頼むよ」
教師にそう言うと、ドミニクは一人教室を出て、俺の肩を叩いた。
「外で話そう」
断る理由はなかった。
校舎から少し離れた、噴水庭園。
円形の噴水は、レンガで作った花壇が囲っている。
花壇には季節ごとに花が植えられ、季節ごとに色合いに染め替える。
いまは植えられているのは、確か、ネモフィラだ。
小さく可憐な花々が、花壇を彩ってくれている。
「彼女たちに、何があったんです」
ドミニクの背中に向かって、俺は尋ねた。
「誘拐だよ。さっきの娘は、犯人の要求を伝えるために、逃された」
「要求というのは」
「金だ。要求通りの額を揃えなければ、娘を殺すとまで言いおった」
ドミニクの足が止まった。
「どうする、つもりだね」
ドミニクが言った。
俺は、はっきりとは答えなかった。
「金は、用意できたんですか」
「いま用意している。学校にとっては痛い出費になるが、命には変えられん」
「それを、俺に運ばせてもらえませんか」
「君なら、適任だと言いたいのかね」
「ええ。そうです」
ドミニクが振り替えた。
ガス灯の明かりで、周囲はほのかに明るくなっている。
彼の顔は、闇の中に混じってはいたが、何を考えているのかはわかった。
呆れている。そして少し、不安がっている。
悲しげに目を細め、俺の顔をただ、じっと見つめていた。
「……確かに、君以上の適任者はおらんな」
そして彼は、深いため息をついた。
「だが、私は反対したい。こんなことをさせるために、君をここで雇ったのではない。協力させれば、これまでの君の努力も、あの子の父親との約束もなかったことになる」
ジョナサン・ビルゲートのことを、言っているのだ。
俺の命の恩人であり、俺が命を奪うはずだった男のことを。
「私が独断でやったことと断じてください。そうすれば、貴方の名誉は守られます」
「その代わりに、君が苦労することになる。名誉だけじゃない。世間の目が、君を改めて、付け狙うのだぞ」
「わかっています」
「いいや、わかっていない」
ドミニクが詰め寄ってくる。
教育者として。
友人として。
彼は俺の肩に、手を置いた。
「君の注目はこの学園の注目になる。いらぬ詮索を呼び、私や、ジョナサンとの関係を探られるかもしれない。そうなれば、君もここにはいられないかもしれない」
「覚悟の上です」
「ジム……」
「校長、俺は十分によくしてもらいました。その御恩をようやく返せます」
ドミニクの手に俺は手を重ねる。
「だが、君にまた仕事をさせるのは」
「大丈夫です。もう2度と、この手を血に染めはしません」
血管の浮き出た、くたびれたドミニクの手。
俺はその手を軽く叩いた。
「任せて、いただけますね」
ドミニクの顔を覗き込む。
彼は、口惜しそうに下唇を噛み、うなずいた。
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