第2話「Hush, Little Baby」02
十四年前、宇宙生物が地球に到来したのに、世界は変わらない。ここが世界の中心であるかのように色鮮やかな馬鹿騒ぎを続けるこの国は、特にそうだとハロルドは思う。宗教家の自殺が相次いだのは、宇宙の存在が公になったというより、「宇宙から飛来したものによって人間は進化したのだ」と定義づけられたからだ。
『こうして、72ヘルツのくじらとよばれる未確認宇宙生物の存在によって、人類には素晴らしい英知がもたらされました。新しい物質や、病気の特効薬となるべく成分が……』
歴史博物館のナビゲーターの話を興味深そうに聞いていた後ろ姿が振り返る。
「ハル」
戸惑ったような笑顔を向けてくる少年に視線を戻して「どうだった?」と問うてみる。ほんのり赤みを帯びた頬が彼の緊張と興奮を教えてくれた。それでも、ハロルドは少年から直接声が欲しかった。
「面白い」
ボソリとそう答えた彼の名前はゾラと言った。苗字も何もない、ただのゾラ。彼はつい先日まで戦場で少年兵として人を殺していた。
「それじゃあ、そろそろ外に行かないか? あそこの公園にはいつも美味いアイス屋が並ぶ」
「アイス?」
「アイスも知らないのか?」
問うと、少年はうなずいた。細い体はまだ未発達で、視線はいつも下を向いている。髪の毛は黒く瞳は蒼で、肌は浅黒かった。彼の美しい造形は、両親のロマンチックな出会いを想像するが、実際はそんな柔らかい話では無かった。
「ハル」
袖を引かれて示されたアイス屋の隣のポップコーン屋に並ぶ。店主は愛想よくすぐにゾラに特大ポップコーンを差し出した。それを一口すると、不思議そうな顔をした。
「甘い」
「甘い? ポップコーンが甘いなんて、今まで何を食べていたんだ?」
問うても、彼は言葉が見つけられないというように、押し黙る。ハロルドの愛猫以外に心を開かない少年は、ただ美しい瞳をハロルドに向ける。姪と同じ、美しい青い瞳。
「ハル」
「ん?」
「どうして、画面の人たちは、殺し合わないの?」
問いに心臓を掴まれた気持ちになって、咄嗟にハロルドは笑顔を作る。
「殺し合わなくても良い世界なんだ、ゾラ。君は今、そういう場所にいるんだよ」
博物館を出ると隣は金曜の夜の映画館。学生たちはみなキスをしているし、恋人たちはこの後ディナーか互いの部屋に行くことだろう。夜がきらめていて、街が静かに人々を見つめる時間だ。映画の時間を示すネオンがハロルドの目を刺す。
「帰ろう」
手を差し出すと、少年はハロルドの手を握り返す。その掌は、姪のそれより、硬くふしばっている。硝煙の匂いが染み付いた指先は遠慮がちに、ハロルドの大きな掌に包まれた。
微笑んで彼に何か声をかけようとすると、コートのポケットに押し込んでいた携帯端末が震えた。素早く通話ボタンを押して耳に押し当てると、『ハル、誘拐事件よ。ゾラに関係する組織が動いたみたい』と同僚が囁いた。
「ああ、今行くよ」
答えて、ハロルドは携帯端末を切り、少年に声をかけた。
「すまないゾラ。俺はこれから仕事だ」
「誰かがハルを裏切った? 俺がトトと殺しに行くよ」
震える自分の体を悟らせないように、彼を抱きしめる。
「大丈夫だ。誰も俺を裏切ってない。トトも呼ばなくて良い。シッターを呼ぶから、家でジェームズと待っていてくれ」
そう伝えて、家に一度帰るために、タクシーを呼んだ。
自分の車で、検察官が割り当てられた駐車場に車を停める。現紐育の中でも、かなり郊外に設置されているのは、一度建物自体が数年前に焼失したからだ。宇宙生物との交渉を前向きに進めるこの国の政府批判は国の施設にも及んだ。郊外になった分、ラッシュアワーの問題に頭を悩ませなくて済んだところもあるが、結局の所この街の本質は変わらない。
「ハル、今夜も遅いな」
「ああ、ジョン。君もな」
同僚が落ち窪んだ目で、車に乗り込もうとしている。
「殺人科が、また例の事件の被害者を見つけたんだ。あそこは地獄だよ」
「お悔やみを言うよ」
言葉を交わして、目をしょぼしょぼさせる同僚が車に乗り込みライトを点ける横で、ハロルドは自室に急いだ。
検察官が務める検察局は、グレーの世界だ。古くからの建物であるから、色を望みようがないのだが、検察長官秘書のメアリーはいつもあちこちに花を飾ってくれる。色とりどりの季節の花が美術館の特等席を奪えそうなほど価値の高い花瓶に生けられていようとも、この建物に色は乗らない。
「よう、ハル」
「ああ」
検察官室に向かえば、自分に割り当てられた机にファイルが載せられている。その一つを手に取って読み込んでいる間に、すぐに携帯端末から連絡が来た。
『ハル、見たか?』
「殺人事件のファイルか? 自分の産んだ子供を殺して逃げた少女は、何者なんだ?」
『それが、分からない。性犯罪捜査官の連中が、近親相姦の子供かと息巻いていたが、どうも違う。急に横槍が入ったんだ』
「横槍?」
『連続殺人事件だったって』
「ああ、EFBI(EarthFederalBureauoflnvestigation=地球連邦検察局)の管轄か」
宇宙からの飛来物により文明が大幅にテクノロジーが飛躍し、宇宙に行くことももはや日常の旅行と変わらなくなった。そのため、かつてこの国だけを見ていた連邦捜査官たちは、宇宙でも頻発する事件に関わるようになり、その結果彼らの管轄は地球規模になった。先日も、月コロニー基地での連続殺人事件で、彼らの名前が上がったばかりだ。
『他の国で人身売買に巻き込まれた被害者だったってことだが、それ以上は我々の管轄ではないんだ。とは言っても普通、俺たちが上にお願いして来てもらうことが多いのに、今回はスペシャル対応だ』
「何故俺に連絡をよこしたんだ?」
『赤子のDNA情報だ。先に、ジルに頼んでラボに出して貰ってたんだよ』
通常の手順を無視する存在に気になりながらも電話口の相手の指示通り、赤子のDNA解析を見る。現在はインターネットでDNA情報を共有する法律が制定されたため、ファイルが凍結されているよっぽどの要人でなければ、DNA情報が読み取れた。
「日本人?」
『名前に、覚えがないか?』
「リュウセイ・タカハシ? 宇宙くじらを学会に発表した博士?」
『世界中から批判を浴びて、その後失踪した人物だ』
「その日本人と殺人事件がどうして?」
容疑者が居るか、法律に反して居る人物が存在しなければそもそも公務員の安月給を叩いてする仕事ではない。相手が何故そんなに興奮しているのかを問う前に、『月基地の連続殺人事件は、タカハシ博士が提供した最初の宇宙くじらのDNAを実験していたんじゃないかって知り合いのCIAが教えてくれた』と言う。
「どんな知り合いだ」
『なあ、ハル。気にならないか? とにかく、ファイルを見て何かアドバイスをくれ。性犯罪捜査官の連中は、せめて少女がどっかの組織に所属してたかだけでも突き止めるって息巻いてる。この事件は何か裏があるよ。俺の刑事の勘がそう言うんだ』
息を吐いて、相手に色良い返事を返してから通信を切った。愛猫に夕食の支度をしておいて正解だった。ナニーに連絡を入れてから、ハロルドはファイルを開いて読み始めた。
事件の始まりを読みながら、この少女の生い立ちがゾラに似ているなと気付いて、ハロルドは息を吐く。
──だから、俺にこの資料を読めと言ってきたのか。
担当刑事の声を思い出しながら、ハロルドは数週間前、ゾラに出会った経緯を思い出して居た。
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