揺籃のトロイメライ
真瀬真行
第1話 Hush, Little Baby01
小雨が天から降り落ちてきた。触れれば空気と溶けてしまうような湿り気ばかりを呼んでくる雨がハロルド・ウィリアムズの持っていた花束を濡らした。ユリは一層瑞々しく光り、カスミソウは多く水分を含んで鈴のように揺れる。その様子にハロルドは眼を細めてからゆっくりと花束を大小の墓石の前に置いた。大きな墓石には『アレックス・ウィリアムズ』、小さな墓石には『レミ・ウィリアムズ』と刻まれていた。
指先で刻まれている名前の感触を確かめてからハロルドは息を吐く。
「ハイ、姉さん。そっちはどうだい? 俺と母さんは……何とかやってるよ。姉さんはレミと楽しくしていてくれ」
ほほ笑んでそう墓石に伝えた後、ゆっくりとあたりを見渡して返答がないことを確認してからハロルドは立ち去った。淡いクリーム色のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで、口から洩れる息が一瞬白を帯びる。草木の匂いが寒さの気配に消えてしまう。空はどんよりと曇り、決して光を漏らさぬように暗雲が厚く覆っている。墓地の端に止まっていた自動タクシーに乗り込む。到着場所を打ち込んで、『目的地はこちらでよろしいでしょうか?』とアナウンスが流れる。『バース国立墓地』と打ち込んでから、それを消した。
「行ってくれ」
アナウンスに伝えると、ノロノロと自動タクシーは動き出す。前を向かないように窓の外の景色を見るように努めた。
『ハロルド、貴方は何も悪くないわ』
記憶の中で姉がほほ笑む。
「いいや、俺が悪いんだ」
記憶の中の姉に囁いた。
同僚のジェシカが先にアソシエイトになったと情報を聞いたのは騒がしいメキシカンバー前を通り過ぎてからだった。自然と足は静かなセントラルパークに向かう。
「貴方はなんにも悪くないのよ、ハル」
友人であるシャイニーはそう言い募った。
「ああ」
携帯端末を確認すると、ジェシカからの着信通知が入っていた。ずっと彼女とはライバル関係にあった。彼女の妻が州知事とのコネクションを持っているなんてことは関係ない。お互いロースクールで多額の借金を抱えつつどうにかやりくりして、バイトを交換したりディスカッションを繰り返していた仲だ。親友だった。
「ハル、貴方どうするの」
有名事務所になんとか二人潜り込んで、一つしかないアソシエイトの椅子を奪い合って昼夜仕事に勤しんでいた。その結果がこれだと、溶けかけたジェラートを眺めた。目の前の彼女、シャイニーが頼んだものだ。彼女は甘いものよりおしゃべりに夢中で、新しい恋人ができたのだと伝えている。そういいながら、テーブルの上で組んだハロルドの右手に左手を絡めてきて、豊満な体を押し付けてきた。
「シャイニー」
非難の響きを込めてそういうと、「どうして?」と彼女は情熱的に聞いた。
「ジャックはまだ帰って来ないわ」
――さて、どうしたもんかな。
笑った表情のまま、ハロルドは背中をカウチに預ける。旧紐育のセントラルスカイパーク向かい側のジェームズカフェは、白髭ジェームズが長年守り続けてくれた美味しいアイスコーヒーとジェラートによって平日の昼下がりだというのに繁盛している。パークをながめられる窓際のカウチをゲットして「今日はツイてるわ」なんて言っていたシャイニーの言葉を思い出す。
視線を動かすと、セントラルスカイパークの名物、ジェットウォークと呼ばれるリュック型の小型ジェットを背負って観光客が公園内を飛んでいる。軍用開発されたジェットエンジンが民間用に改良されたものだ。元々は、宇宙くじらと呼ばれる宇宙生物の身体構造を改良して作られたものだ。そんな得体のしれないものがハロルドの身の回りに進出している。
『危険な立法が迫っている! 我々には生活を守る義務がある!』
プラカードを掲げる人々の声。彼らは14年前、進出してきた技術に恐れ戦いているのだ。紛争は続く。戦争で負傷した兵士が心の傷を癒しきれずに路上で路銀を強請っている。それでも、人の営みというものは変わらない。
「シャイニー」
「なあに、ハル」
「君がいくら、盟友の元妻だとしても、もう関係は続けられない」
彼女の横顔に落ちる光を遮るように選挙カーが視界の端を横切っていく。
『新しい法を我らの手に』
そう叫んで通り着ていく言葉の余韻が引く頃、そっと彼女に囁いた。
「実は、司法局に一つ空きポストがあるとこの前、やり合った検察官が教えてくれた」
上司の提訴を手伝った際に知り合った美しい検察官は一晩共にした後、そっと耳打ちしてくれた。
「貴方、稼げる弁護士になるんじゃないの?」
急に当てが外れたというような声を上げる美しい女に視線を移して、微笑みの表情のままハロルドは告げた。
「もう俺の目の前には現れないでくれ、シャイニー。君は俺には眩しすぎる」
「どうして? ジャックはまだ帰って来ないのよ? 私魅力的でしょう」
「ジャックはもう、帰って来ないんだ。シャイニー。二度とね」
彼女のすすり泣く声を無視して席を立った。
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