第8話

 木菟が地獄の前室から戻ってくると、ちょっと目を離したすきに、美冬が田中の家に泊まることに決定していた。


 夜になっても、美冬が帰る様子がなかった。あまつさえ風呂に入り始めたので、田中を問い詰めると、今日は泊まっていくみたいだね、などという。いつのまにそんな話になっていたのか…、と、木菟は憤慨した。

「何考えてんだよ!いくらルートを変えたからって、1回はあいつのせいで死んでんだぞ!そんなやつと一晩過ごすなんて、危険すぎる!」

 田中は、木菟をじっと見た。

「俺が危険な目に遭わないように、心配してくれてるんだな…ありがとう。」

「ばっ…心配なんかするわけないだろ!勝手にくたばれ、変態じじい!」

 もはやからかわれているような気がする。そして、手のひらの上で転がされているような。木菟はかちんときて、反論しようとした。

「そもそもお前なぁ…」

「お風呂、さきに使わせてもらいました…。」

 湯上りの美冬が部屋に現れたので、木菟はつい黙った。それをきっかけに、田中が腰を上げた。

「美冬さん、ちょっと前田さんのところに謝罪に行ってきます。そろそろお仕事も終わって、お宅にお戻りかと思いますので。」

「そうですか…私も。」

「美冬さんは、ここにいてください。だいたい、もうお風呂、入っちゃったじゃないですか。」

 田中は冗談めかして微笑んだ。美冬は気まずそうに黙る。

「鍵は持って出ますが、俺以外の人間が来ても絶対に出ないでください。モニターに映りますから。」

「わかりました…店長、本当にすみません。」

 美冬はしゅんとして頭を下げた。田中はうなずいて、木菟の方にそっとかがみこむ。

(木菟も一緒に来る?ほんとは美冬さんのそばにいてあげてほしいんだけど)

「行くに決まってんだろ。そもそも美冬には干渉できないんだから、ここにいたって仕方ねえだろ!」

 ふん、と顔を背けると、田中は、それもそうかとうなずいた。


◆◆◆


 前田の家に向かう道々、田中は思い切って聞いてみることにした。

 木菟の、人生に対する未練。彼女を死神に堕とすことになった強い思いについて。


「もう正直、覚えてないんだよなぁ。」

 話すのを嫌がるかと思ったが、意外にも、すんなりと答えてくれた。夜道を2人で歩きながら、木菟はぽつぽつと語っていく。

「『強い未練があった』ことだけは確かで、それだけは覚えてるんだけど…それが何だったか、思い出せないんだよなぁ。」

「じゃあ、未練がない状態と一緒なんじゃないの?」

 田中の素朴な疑問に、木菟はふるふると首を振った。

「いや、未練は確かにあるんだ…だから天国に行けないんだよ。それで死神見習いのままになってるんだ」

 じゃなきゃとっくに、天使になって、天国に行けているはずだろ?と木菟が言う。田中はあいまいにうなずいた。死神見習いの間に現世への未練から解放されれば、天使になって、天国に行けるというルールらしい。

「死神見習いになると、生きてた頃の記憶は徐々に薄れていくんだよな…。なんかあったはずなんだけど。」

 何か強烈な後悔、後ろ髪ひかれる思いがあった、ということは覚えているが、それがなんだったか思い出せない。木菟は歩きながら、器用に道の小石を蹴った。そして、投げやりに言う。

「ま、そのうち、<未練があった>ことすら忘れるんだ。そしたら一人前の死神だ。」

「それはどういう意味だい?翼の色が変わったら…じゃないのかい?」

「翼の色?ああ、それもあるけど、白い部分の面積は、保持している記憶の量に比例してるからな…。」

 死神見習いになり、生きていたころの記憶が失われていくにつれて、翼の色が黒くなっていく。そして、すべての記憶がー現世に強い未練がある、ということも含めてーなくなったとき、死神見習いは、一人前の死神になる。

 そして、その後は後戻りができない。

 死神になったものの運命は、わかってるよ、と彼女は言った。そして、淡々と語る。

 記憶の次は、自我が少しずつなくなる。自分が何だったか分からなくなる。魂が擦り切れていくんだ。

 自我があるうちは、地獄の使い走りで、見習いの時と同じように仕事を任されたり、使命を与えられたりする。

 だが、自我を失い、自分が何だったかも忘れてしまったあとは、罪人と同じように地獄に落とされる。自我がないから、獣のように地獄を徘徊するしかない。どんな人生だったか、どんな罪を犯したかもわからないまま、地獄の苦しみだけは味わわされる…今まで死神見習いから死神になった先輩たちは、一人の例外もなくその道を歩んでいる。

 それを聞く田中が、よほど悲壮な顔をしていたのだろう。木菟は強がるように笑った。

「まぁ、地獄に落ちる頃には記憶も自我もないんだから、どうでもいいっちゃいいのさ。」

(でも本当は、天国に行けるはずだったのに…。)

 そんな言葉を、木菟にかけても、仕方がない。憐れまれたように感じてかえって嫌がるだろうと、田中は心の内にしまった。

 何とかして、助けたい。田中は改めて、そう思った。


◆◆◆


 徒歩20分くらいで、田中と木菟は、前田の家に着いた。

 友人のビジネスに出資するだけあって、前田は立派な庭付き一戸建てに住んでいた。芝生の庭の外周には洋風の柵が巡らせてあるが、外門から母屋までは和風の飛び石が続いている。花壇に植えられている木や花を見ても、枯れかけたバラらしい茂みもあれば桜のような広葉樹もあり、洋風庭園なのか和風庭園なのか分からない。本人の性格からして、大したこだわりはないのかもしれなかった。

 外門は低く、取っ手を捻ると閂が開いて片側が開くタイプの扉で、鍵はかかっていなかった。田中は一旦立ち止まり、外門の呼び鈴を鳴らした。が、反応はなかった。

「留守なんじゃねぇの」

 木菟は指摘する。田中は首をひねりながら何度か呼び鈴を鳴らしたが、やはり誰も出てくる気配がない。

「外側の呼び鈴が壊れているのかもしれない…ちょっと見てくるから、ここで待ってて」

 田中は外門を押し開け、中に入っていった。母屋の入り口は外門からは見通しが悪くなっていて、誰かが応答したか、田中が母屋に入ったか…などは分からない。

(ついていけば分かるけど…まぁ、どうせ留守なんだろ)

 たかをくくった木菟は、門の外で庭の植物を眺めたりして待っていた。

 その後、10分から15分ほどして、田中が戻ってきた。


「やっぱり留守だったよ。飲み歩いてるのかなぁ。」

「ほらやっぱりな。」

 母屋のにおいが移ったのか、戻ってきた田中からは、少々煙草のにおいがした。


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