第6話
9月3日 朝
木菟が目を覚ますと、田中は誰かと電話しているところだった。
「はい、はい…急に申し訳ありません。…いえ、ええ、お世話になりました…書類等は追って…いえ、自分の責任ですから。前田様に収めていただくにも…ええ。」
しばらくして、会話が終わり、田中は深いため息をつきながら通話ボタンを切った。
「誰?」
「オーナーだよ。」
「何だよ、店辞めろって?」
「いや、俺の方から申し出た。」
ふうん、とうなずいたが、木菟は内心、意外に感じていた。
何だかんだ言って、田中は仕事が嫌いではなさそうだった。料理をしているときは本当に楽しそうだったし、店長として、スタッフにも概ね慕われているようだった。だから<死に戻り>をして、生き延びる可能性を手にしたとしたら、この店で働き続けることを選択するのではないかと思ったのだ。
<死に戻り>前は、美冬が自殺まで追い込まれたせいで店に火を放ったが、今回は「美冬が前田に謝りに行く」というイベントの前に美冬を解雇している。クビになったというショックや、アパートを探し直さなければならないという問題はあるにせよ、これ以上、前田と接点がなければ、前田を殺害する機会がなく(田中は「美冬が前田を殺したんじゃない」と言い張っているが)、自殺まで追い込まれる可能性はぐっと下がっている。ということは、店に火をつけられる可能性も低いということなので、木菟はてっきり、このまま田中が店長を続けるものだと当たり前のように思っていた。
田中は、渋い表情で続ける。
「…前田さんやっぱり、美冬さんを家に寄こせって、無茶言ってるらしい。」
「はぁ?」
「もう店を辞めてもらった人だから、勘弁してください、って言ったんだけどね…あと、俺のことも気に入らないらしい。露骨に美冬さんをかばったからなぁ。」
はぁ、とため息をつく田中。それで責任を取って辞表を出す、という対応を申し出たらしかった。
「オーナー、前田さんに弱いからなぁ…」
「何だよそれ。明らかに前田が美冬をイジめて悦んでるだけじゃねぇかよ…納得いかねぇな。」
ぶつぶつ言う木菟に、田中は何も答えなかった。代わりに、興味深そうに木菟を見つめている。
「な、なんだよ?」
「いや、木菟、ありがとう。」
「だからなんだよ急に!気持ち悪いな!」
「いや、俺のために怒ってくれてるんだろ…なんかうれしいなって。」
「ば、ばか!仕事だからに決まってんだろ!お前のことなんか興味ねえよ、ぼけ!」
木菟は強がって言い返した。が、自分でも自分の心境の変化について、もう認めないわけにはいかなかった。
出会った当初は軽蔑すら抱いていたはずの目の前の男に、今はそこまで嫌悪感を感じていない。この数日で、間抜けなくらいの人の良さを見せつけられたせいか、うますぎる手料理のせいか、<死に戻り>を決めた本当の理由を聞いたせいか…木菟の中に、少しずつ、不思議な感情が芽生えてきていた。
(あたしは、こいつに、生きていて欲しい…かもしれない。)
そこまで考えて、ぶんぶん、と首を振る。
(落ち着け!監視対象の人間に情を移すなんて、どうかしてるぞ!)
なんとか頭を切り替えた。状況を再確認し、次に言うべきことをひねり出す。
「と、とにかく、美冬を前田の家に行かせるのはまずい!殺しちまうかもしれないぞ!」
その可能性については田中も否定しようとしなかった。深く頷いて、答える。
「そうなんだよなぁ…。」
ぴんぽーん。
2人して考え込んでいるところに、間延びしたチャイムが鳴った。田中はきょろきょろと辺りを見回す。
「お客さんじゃねぇの。」
「そうか、インターホンか…。」
木菟に指摘されるまで、呼び鈴の音だと気づかないほど、客の来ない家らしかった。最初辺りを見回していたのは、何かの家電の音かと思ったようだ。
「誰だろう、お客さんなんてめったに来ないけど」
自分でもそう認めながら立ち上がり、田中はドアホンのモニターを確認する。エントランスで呼び鈴を鳴らしている人物が映し出されているらしい。木菟はその場で上半身を伸ばし、田中の背後からモニターを覗き込んだ。
解像度の荒いモニターの画面に映っていたのは、榊美冬だった。
◆◆◆
急に来てすみません、びっくりしましたよね、と美冬は言ったが、田中は心のどこかでこれを予期していた。
自分の家に部下の女の子が座っているのは奇妙な感覚だった。ダイニングの食卓に腰かけても、美冬は、しばらく何も話そうとしなかった。うつ向いたまま、ずっと逡巡し、言葉を選んでいるようだった。
「美冬さん、朝は食べてきた?」
「いいえ、まだ…。」
ふうん、と顎に手を当てて考える。もう朝食と言うには遅い時間だが、実はまだ、自分と木菟も食べていない。
「美冬さんは、ごはん派?パン派?」
「いえ、普段はあまり朝は食べないのですが、あえて言うならパンが多いです…あ、でも店長、本当に、お気遣いなく…。」
慌てて立ち上がりかけた美冬を制し、田中はにっこり笑ってみせた。
「大丈夫、どのみち俺も今作ろうと思ってたところだから…。」
(木菟は和食派、しかも魚大好きなんだけど…今回は美冬さん優先で、いいか。)
スープは昨日の残りがあるとして、昨日から仕込んでいた食パンを冷蔵庫から取り出す。牛乳と卵、砂糖を混ぜ合わせた浸け込み液に、実は昨夜から浸してあったのだ。
(もし木菟がどうしても和食で、ってごねたら、木菟の分はごはんで、俺が2人前食べちゃお、と思ってたけど…まぁ1食分は美冬さんにあげて、あとは木菟に選ばせようかな。)
フライパンに2人分、合計4切れの食パンを並べて、弱火で6~7分ほど焼く。片面が焼けたら、崩れやすいので、手を使って丁寧にひっくり返した。ふたをして、弱火でまた6~7分。隣のコンロで、昨日のスープを温める。
「フレンチトースト、完成。」
出来上がったフレンチトーストを平皿に盛る。部屋の反対側にいる木菟に、(食べる?)と目だけ尋ねながら、皿を持ち上げてみせると、木菟は首を横に振った。
(やっぱり和食派だよなぁ…ま、でも後になってやっぱり食べたかった、って言われるかもしれないし。)
美冬の前にだけフレンチトーストを置いて、自分用には昨日の残りのごはんと、納豆を用意した。野菜スープはわりとボリュームがあるので、これで十分だろう。
「美味しそう…いただきます。」
美冬がフレンチトーストにかじりつく。どきどきしながら向かいに座り、反応を見る。
「美味しい。」
ほころぶような笑顔に、ほっとする。そして、自分まで笑顔になっていることに気づく。
(そうだ俺、食べる人の反応を見るのが好きで、料理人になったんだよなぁ…。)
ここ数年は、そんな感情すら、忘れていた。この数日で、木菟や美冬のために料理を作って、久々に思い出したのだ。
「野菜のスープも、本当にやさしい味…。」
一言ずつ感想を述べた後は、黙々とフレンチトーストを食べ、スープを飲む美冬。言葉が無駄に費やされず、箸がとまらないのは、本当に美味しいと思ってくれている証拠とも言えた。そんな美冬を見つめながら、田中は得も言われぬ幸福感を感じた。
◆◆◆
「あの、店長…。」
食事がひと段落した頃合いで、美冬が、改まって切り出した。そして、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。その、私…」
予想外の展開に、田中は驚いた。もとはと言えば、責められても仕方がない、と覚悟して家に上げたのだ。美冬は顔を上げ、続けた。
「もう…限界だったんです。自分では、どうしようもできなくて。でも、店を辞めようにも、アパート探し直したり、新しい就職先を見つけたり…そういうエネルギーが、どうしても出なくて…でも、店長に言われて、ようやく私…。」
ぽつぽつと言葉を絞り出す。どうやら美冬は、田中が美冬を解雇した意図を、理解してくれたようだった。
本当なら、恨まれこそすれ、礼を言われるようなことは何もしていないのに…と、申し訳なくなった田中は、頭を下げ返す。
「いや、こちらこそ申し訳なかった。美冬さんが苦しんでいるのを知りながら、俺は何もできなかった。あまつさえクビにするなんて、最低の店長だよ。申し訳ない。」
「いえ、謝らないでください。もうどうしようもなかったですから…。オーナーと前田さんは、仲が良いし、前田さんに目をつけられたら、辞めるしかなかったのに…店長に言われるまで、決断できなくて。このまま店にい続けたら、変になっちゃってたかも。」
謝罪する田中を制しながら、美冬は吹っ切ったような笑顔を見せる。だが、一瞬で暗い表情に戻った。
「それより店長まで私のせいで…すみません。」
オーナーから聞いたのか、早くも田中が店を辞めることを聞きつけたらしい。
「いいんだよ。正直俺ももう、あのオーナーや前田さんと、関わりたくないっていうか…いい機会だから、旅行でも行こうかな、なんてさ。なかなか普段休めないし。」
「でも…私…店長にご迷惑をかけてしまって…。」
決意を込めた口調で、美冬は続けた。
「だから、私、自分でちゃんと、したいんです。」
「ちゃんとしたいって、何を?」
「…前田さんのところにお詫びに行って…それで、田中店長のことも、許してもらえるように…。」
「それはだめだよ」
田中はきっぱりと言った。せっかく前田の魔の手を逃れ、前向きに次の一歩を踏み出そうとしているのに、ここで美冬が前田のところに行っては意味がない。田中は美冬のことを信じているが、<死に戻り>の前の9月3日、美冬が前田に謝罪に行って、同じ晩前田が不審火で死んだことは確かだ(木菟は「美冬が殺した」と決めつけているようだったが)。美冬がころしたのか、単なる事故なのか…どちらにせよ、そこで美冬は決定的に追い詰められたのだ。
「そもそも美冬さんは、店を辞めた人間でしょう。辞めさせた俺が言うのも変だけど…それとも、オーナーに何か言われたんですか?」
こちらから水を向けると、美冬はぽつぽつと話し始めた。
「…クビというのは田中店長の独断なので、辞めないで今日も店に出て欲しい、と。それで、どうしても、前田さんのところに謝罪に行くように、と…。」
「なるほど…」
もう美冬が前田とかかわらなくてもよいよう、先手を打ったつもりだったが、無駄だったようだ。おそらく前田本人からオーナーに、美冬を来させるよう話があったのだろう。
確かにやとわれ店長の身で、オーナーの承諾も得ず、準社員の美冬の解雇を勝手に決めるというのは無理筋だ、と田中にも分かってはいた。<死に戻り>前にしても、美冬を解雇したのはあくまでオーナーの意志であり、田中は単なる伝令役に過ぎなかった。だが他に、やり方が思い浮かばなかったのだ。
それにしても、前田のもとに美冬を行かせれば、何をされるか分からないことくらい、オーナーにも分かりそうなものだが、と田中は思った。生贄にするようなものではないか。
「実は今朝、前田さん本人からも電話があって。」
「美冬さんの携帯電話に、ですか」
「そうです。私は番号を伝えていないので…。」
おそらくオーナーが教えたのだろう。さらに怒りがわいてくる
「いつ来るつもりか?と。こちらから行ってもいいんだよ、と言われて…。」
住所もオーナーが伝えたのだろう。いつ来るのか、こちらから行こうか、とは、いかにも下心丸出しのセリフだった。前田は妻帯者のはずだが…などと考えながら、田中はふーっと息をついた。
「前田さんに家を知られているなら、しばらくは、家に戻らない方がいいですね。美冬さんはもう店を辞めた人間で、前田さんとは何の関係もないはずです。これ以上つき纏われるようなら警察に相談した方がいいかもしれません。」
「でも、警察に言うのは…。何かされたわけではないので、被害妄想だ、と言われそうで…。」
腹立たしいが、美冬の言うことも分かる。前田が異常なほどに美冬に執心し、ねちねちと暴言を吐いていたのは見て知っているが、実際に暴力を振るったり、襲ったりしたわけではない。それだけでは、警察は動いてくれないだろう。
「すみません、私、店長にこんな話して…。」
「いえ…とにかく、美冬さんは、前田さんのところに行かなくていいです。いや、行かないでください。」
「でも、私…。」
「俺が代わりに行きます。おそらく謝罪をダシに美冬さんを呼びつけたいだけだから、俺が行っても解決にならないんだろうけど…。」
一応、 もう退職の意は伝えたので、そこまでする義理はないかもしれない。が、美冬を前田と会わせるわけにはいかない。田中は静かに決意した。
「でも、もとはと言えば私の問題なので、私も一緒に行くべきでは…。」
「いえ、来ない方がいいと思います。今夜謝罪に行ってくるので…美冬さんはここにいてください。」
不安そうな美冬に、田中は大丈夫、と微笑んだ。
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