第33話 扉
「あ゛あ゛ア゛ア゛あ゛ア゛あ゛あアァ゛ァァぁ゛ァッ!!!!」
濁った雄たけびを上げながら、虎の右腕が振るわれた。
すさまじい速度と
一瞬で軌道を見極め、攻撃範囲から退く。
刹那の後に地面へ腕が叩きつけられ、豪快な土柱が月夜へ上がる。
土色のカーテンによって互いの動向が不確定になり―—
「——か、はっ」
その中ほどを切り裂いて、狙いすました後ろ足の薙ぎ払いが俺の腹を捉えた。
吐き出された浅い息と赤の混じった唾液。
蹲るような体勢で吹き飛ばされ漆喰の外壁へ激しく背を打ち付ける寸前、体と壁の間に緩和した重力のクッションを生み出し受け身をとる。
だが安心することなく前を見据えれば、鋭く尖った鉤爪が迫っていた。
事前に追撃を予想し『
ガガガガガッ!! と掘削機の如き音色が響く。
何とか拮抗している間に浮遊して、乱れた呼吸を整える。
地上で虎が怒りを示すように唸っているが無視。
流石に空までは上がってこれまい。
「痛ってえ……なんだよあの馬鹿力。吐きそうなんだけど。やっぱり肉体の性能はあっちのほうが上か。さっきのは……そうか、嗅覚か。目が見えなくても無関係ってことね」
一連の流れを思い返しながら、俺は結論に至った。
奴にとって視界は世界を認識する手立ての一つでしかないのだろう。
油断していたつもりはなかったが、気を引き締める必要はある。
そんな思考の最中、虎が妙な動きをしていた。
少しばかり距離をとって空中に浮かぶ俺をじっと見つめ、全身を連動させた動きで駆け出し、
「あ、やば」
意図を察した俺は急いで高度を上げる。
だが、それよりも早く虎は地面を蹴り上げ、月に向かって跳躍した。
大きく開いた顎。
生えそろった剥き出しの白い歯は唾液に濡れていた。
遂に俺へ届く虎の脅威。
だが食われる気は毛頭なく、身体を後方へ引っ張っての緊急回避で難を逃れた。
ガチンッ!! 音を立てて閉ざされた牙。
僅かでも遅れていれば腹を食われていた。
見開かれた双眸には「次はない」と言いたげな感情が宿っている。
空にとどまる翼のない虎は地球の重力に引かれて落下していく。
その隙を逃す手はない。
「『
手のひらを
方向性は虎を中心に向かうように。
ただし地に落とすため頭上からの過重は重めだ。
抵抗する術を持たない虎は狙い通りに墜落し、地面に大きなクレーターを生み出した。
俺も高度を少しづつ下げながら地上へ着地する。
飛行制御は精密な操作を要求されるため、ほかの異能を使う時には威力が犠牲になってしまう。
その状態でも倒せるならよかったのだが……そこまで甘い相手ではないはずだ。
現にまだ動いている。
生きている。
「……いテえなァ。くちンなカにつちハいッチまったジャねえカ」
のそりと緩慢な動作で虎が起き上がり、土に
その目は高揚に満ちていた。
どんだけ戦闘好きなんだよクソが。
「大して効いてないくせによく言う。次は手足の一本や二本は覚悟してもらうぞ」
「やってミろやッッ!!!!」
咆哮。
クレーターの中央、大地を四本の足で力強く踏み抜いて虎が疾駆する。
急な斜面を一息に駆け上がり、満月を背に宙へ跳ぶ。
大きな影が俺の頭上に覆い被さった。
慣性に従って放物線を描く虎が両前足を振りかぶり、
「ら゛あア゛ああアア゛あぁァッ!!」
「——っ!」
咄嗟に展開した『
俺を守る半透明の黒い壁が甲高い悲鳴を上げる。
そして、
「ちっ」
力の均衡が傾いた。
壁を爪がわずかに貫通している。
にい、と虎の口の端が奇妙に歪んだ。
もう一枚展開するか?
いや、防御にばかりリソースを割いていては倒せない。
やるなら攻防一体だ。
判断にコンマ数秒を費やし、虎から外側へ協力な重力場を展開。
爪に壁が破られる瞬間を見極め合図の指を鳴らす。
「アあ゛っ!?」
すると、虎の巨体が空中に縫い付けられた。
じたばたと
外側に指向性を持たせているのは万が一にも殺さないためだ。
内側に向ければ圧し潰された鉄くずのようになる。
……なんとなくこいつの場合は強靭なフィジカルで耐える気がするが、それはそれ。
殺すだけならいくらでもやりようはある。
が、今回の目的はあくまで確保。
気分的に好きではないので最終手段にしたい。
手を伸ばせば届くような距離感で、虎へ勧告する。
「悪いな。確かにお前は強いよ。今のを突破したのは『
その言葉への返答は天を
人間としての理性が蒸発しかねないほどに怒りを覚えているのか、眼は紅く血走っている。
獲物を前にした虎の口から絶えず唾液が滴り、落ちた。
「だからこそわかるだろ? まだ、足りない」
無慈悲に感じたままを伝える。
『
現に、虎の手は俺へ届かないのだから。
レベル9と『
たった一つの違いは、この上なく残酷だ。
「——ざッケんナ」
漏れ出した怒りの声。
ぐるる、と唸る虎の存在感が増した。
ごきゅ、ごきゅと動物の身体から鳴ってはいけない音が耳に届く。
音に乗じて虎の体躯が一段と肥大化する。
背筋を薄ら寒いものが駆け上がった。
肌が否応なくひりつく感覚。
例えば密林で飢えた猛獣に出くわしたかのような、焦燥感。
そんな、人間の本能へ訴えかける野生の殺気だ。
「おレはなァ、おまエにかつたメにこコにいんダよ。そノためナラなあ……なニをうしナッテもおしクはネェ……ッ!!!!」
月夜へ捧げられた虎の誓い。
自分のすべてを賭けて、こいつは俺を殺しに来るのだ。
ぶちぶちと筋繊維が千切れるのも厭わずに、『白虎』は重力場から遂に抜け出した。
四足で着地し、皮膚が裂けて血まみれとなった身体のまま、再度向き合った。
正気と狂気に揺れる眼。
相当な激痛のはずなのに、おくびにも出さないのは流石というべきか。
尋常ではない胆力だ。
だが、それよりも。
―—纏う雰囲気が濃くなった。
「おいおい……今じゃなくてもいいだろうが。ご都合主義の主人公かっての」
思わずどうしようもない愚痴を半笑いで呟いた。
知らずのうちに冷汗が額を伝う。
俺の目の前に立ちふさがる『白虎』は、自分の意志で壁を破ったのだ。
「まだまだ、愉しい闘いを終わらせはしねぇよ」
『
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