第2話 最愛の妹

「――い! お兄っ!」

「――っうぷ⁉」


 腹部に感じた壮絶な重みで夢の世界から叩き起された。

 眠気眼で見上げた先には制服の上にエプロンを着た我が妹――美桜みおの顔。

 艶やかな二つ結びの黒髪がまたがりながら動く度につられて揺れる。

 世の中の男子諸君ならば己の相棒が敏感に反応しそうなシチュエーションでも、俺は全く動じない。

 美桜という現世に君臨した天使の前ではありとあらゆる邪念は打ち消されるのだから。


 今日も世界一可愛いな……とか言うと真顔でキモがられるので心の中だけに留めておく。

 もし、万が一にでも「お兄嫌い!」などと言われれば、自己喪失の果てに世界を滅ぼしかねない。

 いや、冗談だけど。

 要はそれくらいのショックを受けるって話だ。


 窓から差し込む眩しい朝日に当てられて、徐々に意識が覚醒していく。


 仕事を終えて夜中に帰った俺はシャワーも浴びずに寝落ちした。

 壁掛け時計を見れば、現時刻は午前7時前。

 3時間睡眠は身体に絶対悪いって。


「お兄、起きてるー?」

「あーはいはい。起きてる起きてる」


 美桜の問いかけに空返事。

 美桜は二度寝を許してくれそうにない。


 ふぁぁ、と大きく欠伸をして上半身を起こすも、美桜が退く気配はなかった。

 じーっと俺を見つめるアーモンドのような瞳に宿るのは不安や心配といった感情。


 俺が仕事から帰った翌朝はいつもこうだ。

 事情は美桜も知っているし、何度も話し合って俺があの仕事をすることを認めている。

 けれど、それとこれとは話が別。


「心配かけたな」

「……ん」


 普段通りに背へ手を回して軽く抱き寄せれば、美桜は自分から胸に顔を埋めた。

 静かな息遣い、微かに甘く心が落ち着く温かさを伝えあって。


 数秒間の沈黙。

 それは俺と美桜が日常を確認するための儀式。

 これでようやく、帰ってきた実感が生まれてくる。


 ややあって美桜が離れ、憑き物が落ちたように晴れやかな笑みを浮かべた。

 周りの人間に元気を分け与える太陽のような、そんな笑顔。


「よしっ! じゃあ、私は朝ごはん作りに戻るからね。出来上がるまでにシャワー浴びてくること!」

「はいよ。毎朝ありがとな」

「いいのいいの。お兄の世話焼いてるの割と楽しいから。ダメ人間観察日記的な?」

「それは勘弁」


 ぱたたー、と美桜は部屋を出ていった。


 さて、俺も朝の支度をしなければ。

 美桜の冗談が現実になったら兄としてのちっぽけな矜恃が粉砕される。


 手早くシャワーを浴びて登校の身支度を済ませてリビングへ行けば、ちょうど朝食の用意が出来た頃合のようだ。


「あ、いいところに。これ運んでちょーだい」

「おっ。今日は和食か」

「鮭の切り身が安かったからね。それにほうれん草のおひたしとお味噌汁。ちなみに具材はお兄の好きな油揚げと大根です」

「流石は美桜。兄のツボをわかっていらっしゃる」

「ふふふーっ、もっと褒めてもいいのだよ? ほれほれ」


 なんて、兄妹で漫才をしつつ、テーブルに出来たての朝食が並んだ。

 席に座って手を合わせ、二人揃ったところで「いただきます」と言ってから箸をつける。


 焼きたての鮭を箸で解して口へ運ぶと絶妙な塩気が食欲を唆り、白米へ手が進む。

 そのまま流れるようにおひたしと味噌汁も一通り食べて、一息。


「ああ……ほんと美味い」

「お兄の胃袋は私が握っているのです」

「あながち間違いじゃないのがなんか悔しい」


 事実、家事全般を支えているのは美桜だ。

 中学2年生でありながら、美桜の腕前は歴戦の主婦に勝るとも劣らないだろう。

 特に料理は群を抜いている。

 クリスマスケーキやおせちなんかも自分で作る筋金入りで、しかも美味い。


 俺の妹とは思えないくらいの優秀さ。

 加えて掛け値なし可愛い美少女。

 四捨五入でようやくフツメンの下な俺にも顔面偏差値を分けて欲しかった。


 他愛(たあい)ない話をしながら朝食を食べ終え、二人で協力して食器を洗ってしまう。

 美桜が家事万能だからといって、全て任せてしまっては時間がいくらあっても足りない。

 学校がある平日の朝となれば尚更だ。


 荷物を取りに部屋へと戻り、並行してスマホに連絡が入ってないか確認する。

 電源を入れると、数件のメッセージが画面にポップアップした。

 うち三つはニュースや天気なんかのお知らせだ。

 だが、最後の一つは違った。


 差出人は有栖川。

 内容は簡潔――『覚えておいて下さい』と一言。


「怖すぎだろ……」


 余計な情報が一切含まれていないのが逆に不安感をあおる材料になっている。

 有栖川は冷静で頭の回転は早いのに、どうしてこうも短気なのか。

 ……冷静と短気って矛盾してないか?


 有栖川アリサという人間を表すのに最適そうな言葉は『理不尽を押し付ける氷の女』だな。

 特に俺には当たりが強くて、それなりの付き合いがあっても何が琴線に触れるのか理解出来ない。

 俺の中では突発的沸騰物として危険人物にカテゴライズされている。


 それにしても。


「怒らせるようなことしたか?」


 頭を捻ってもそれらしい事柄が思い浮かばない。

 直近なら有栖川を置いていって仕事を終わらせたことか?

 一応連絡はしたけど見てなかったって可能性は――


「……あ。送信出来てなかった」


 有栖川とのトーク画面を見て気がつく。

 仕事が終わった旨を知らせるメッセージは俺の操作ミスで送信されずに電子の海へ消えていたようだ。

 つまりは、全てが終わったビルで有栖川は無為な時間を過ごしたことになる。


 ……うん、これは俺が全面的に悪いわ。


 会ったらちゃんと謝ろう。

 言い訳くらいは聞いてくれるはずだ。

 許してもらえるかは有栖川の気分次第だけど。


「お兄ー! そろそろ行かないと遅刻するよー!」


 中学校の制服を着こなした美桜が待ちかねて部屋へと突撃してきた。

 惜しげもなく晒される健康的な脚のラインは春特有のものだろう。

 年頃だからと背伸びをしているのか、膝上のスカートが兄としては気になるところだ。

 パンツ見えない? 大丈夫?


「あーっ、どうしてアイロンかけてない方のシャツを着るかなぁ」

「えっ……ほんとだ」

「気を抜きすぎだよ。着替えるまで待っててあげるから、早く来てね」


 返事を聞かずにヒラヒラと手を振って美桜は部屋を去った。

 確かに気が抜けているのかもしれないな。

 シャツを着替えてブレザーを羽織り直し、ネクタイがキッチリ締まっているか鏡で確認。


 俺が身嗜みを意識して整えなければ美桜の努力も浮かばれない。

 なにより、身綺麗にしていれば当社比で自分の不出来な顔が多少マシに見える。


 遅れて玄関へ向かえば、靴も履いて準備万端な美桜が髪を弄って待っていた。


「悪いな、待たせて」

「ううん。じゃあ、行こ」


 美桜に手を引かれ、若干の恥ずかしさと嬉しさを感じながら登校するのだった。

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