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いつの間にか教室は、息がしづらいほどの空間にまで仕上がっていた。
尋問されている容疑者のような面持ちでいる生徒二人に、杏子は例の出来事を掻い摘んで話した。
「私は一瞬でも加味根先生が浮気していると疑った自分が情けなかった」
「どういうことですか?」
そうきいたのは、
「加味根先生は女と会うためにそのスナックに行ったわけじゃなかった。いや、女であるのはそうね。でも先生は私利私欲のためではなかった。スナックS、そこの経営者である田上沙織、あなたのお母さんに会いに行ったのよ」
約三週間前、杏子が向かったスナックSには営業準備中の紙が貼られていた。その紙をちょうど貼ったばかりであろう女が店内に入ろうとしていたので、杏子は呼びかけようとした。しかし女の方に電話がかかってきて目的は阻まれた。女は「田上です」と名乗った。
「電話が終わったあと、私はあなたのお母さんに話を伺ったわ。昨日に加味根先生が訪ねてこなかったとね。当然来たと答えた。娘の進路について相談したいと加味根先生は言ったそうね」
「はい、そうです」
「いいえ違うわ」
間髪入れずに杏子が否定したので、田上はたじろいだようだった。
「私も最初はそう思った。田上さんが急遽進路変更を希望して、加味根先生があなたのお母さんにも話を聞きに行ったんだと。だから鞄の中には出願書類が入ったままだった」
でも、と杏子は続けた。
「田上さん、あなたは何らかの不正を起こしていた。悠介さんはあなたの家に行った時、偶然それに気づいた。彼のことよ、それを知った上で出願書類を生徒に渡すわけがない。悠介さんは不正の事実をあなたのお母さんに問い詰めに行った。お母さんもきっと知っていたのでしょうね。だから真実を私に隠した。そして悠介さんも、私に隠した。ずっと一人で悩んでた。自分の大切な生徒とどう向き合えばいいのかを。そんな優しい彼を、お前たちは殺したのよ」
最後の方、杏子を感情を剥き出しにしていた。抑えきれなかったのだ。
田上と宮下は何も言葉を発しようとしなかった。その反応は杏子の期待を悪い意味で裏切った。二人が「殺してなんかいません」と否定するのを本当のところは願っていた。しかし高校三年生の子供たちの目は肯定を表していた。
「やっぱりそうなのね……」
力が抜けていくようだった。だがそれも一瞬で、怒りと憎しみが彼女を奮い立たせた。「どうして殺したのよ。どうして。そこまでする必要があったのっ」
田上の胸糞を掴んでいた。
「落ち着いてください先生」
間に入ってきたのは宮下だ。杏子は血走った眼光を飛ばしたが、彼は臆しなかった。
「先生違います。先生は勘違いをしている」
「私は何も勘違いしてないわ。あなたたちが悠介さんを殺したのよ」
「たしかに俺たちは加味根先生を殺しました。でも俺たちは悪くない。先生の推理は半分合っていて半分間違っている」
「なにをいってるの」
「加味根先生はこの教室で授業したのを最後に姿をくらました。そういう根拠から3年3組が何らかの秘密を握っていて、それは優來の不正が漏洩するのを防ぐためだと先生は踏んだ」
宮下の言う通りだった。さらにいえば、クラスの中心核でもあり田上の恋人である宮下に接触すれば解決の糸口を掴めると思った。そういう理由で、出願書類を餌に、口を割らせようとしたのだ。
「でも本当はそんな理由で先生を殺したんじゃない」
「じゃあなんだっていうの」
すると、宮下の拳が小刻みに震えているのがわかった。目はじっと杏子の顔を見据えている。田上の方は体全体の震えを抑えるように両手で上半身を包んでいた。
「あいつは……」宮下は低い声で言った。「あいつは無理矢理、性的なことを優來に要求したんです」
杏子は、彼が一瞬何を言ったのか分からなかった。彼の言葉を反芻するように声に出してみたが、その言葉の意味を理解するのを脳が拒んでいた。
「嘘でしょ」
ゆっくりと首を振りながら言った。心には大きな穴が空いていた。その穴は、加味根が死んだと分かった時よりも大きかった。
「本当です」
田上が顔を上げて言った。今までにない強い口調だった。
「そんなわけないじゃない。だってあの人よ? そんなことするわけない」
「俺たちだってそう思ってました。でも優來からその話を聞かされた時、ああやっぱりとも思いました。一見真面目な教師が猥褻行為で捕まるニュースなんてよくある」
「彼は別よ」
「別なんかじゃないっ!」
ヒステリックな声が教室に響いた。田上は頭を抱えながらその場にしゃがみ込んだ。
「あんなやつ死んで当然よ。私はただ勉強を頑張って、お母さんを楽にしてあげたかっただけなのに。それなのにあいつは……あいつは指定校を取り下げたくなかったら俺とセックスしろって。しかもあいつはお母さんのところまで行って、何て言ったと思う?」
「もういいよ」
宮下が、泣いて震える彼女の背中を優しく撫でた。
「優來からこの話を聞いた時、絶対に殺してやると思った。俺がこの話をクラスですると、皆も同じふうに言った。死ねばいいのにって。みんな優來を慕ってたから、みんなに殺意が芽生えたんです。だから加味根を殺したんです」
後半からは、話が頭に入っていなかった。代わりに杏子は、加味根と過ごした日々を思い出していた。その日々を送っていた時は、紛れもなく幸せだった。その幸せは偽物だったというのか。彼女が作った料理を笑顔で美味しいと褒めてくれた彼は一体何だったのか。
杏子は、覚束無い足取りで窓に近づいた。開けると、風が吹き込んできた。
下を向くと、どこかの部活が集団でランニングして駆けていくところだった。それを空虚に眺めていた。
飛び降りた。
落ちながら最後に思い出していたのは、婚約者の顔ではなかった。
田上優來の真っ赤な唇が脳裏に浮かんだ。
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