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 男子生徒が夏目漱石のこころを朗読している時にチャイムが鳴った。生徒は中断し、目線を教科書から白水杏子しらみずきょうこに移した。どうしますか、と判断を教師に委ねたいようだった。


「今日はここまでにします。次回までにさっき言ったところ読んどいてください」


 授業から解放された生徒たちが安息の地を取り戻したかのように長い息を吐いた。窮屈だった空間が一瞬にして和やかなものに変わった。7限後だからか、余計顕著に表れていた。


「特に連絡事項はありませんので、もう帰ってもらって結構です」


 授業が終わり次第、本来なら杏子は教室を後にして職員室に向かう。そうしないのは、二週間前彼女がこのクラス、3年3組の新しい担任として選ばれたからだった。そして二週間前まで3年3組を請け負っていたのは、加味根悠介という日本史の教師だった。彼は現在、行方不明である。


 生徒が次々と教室を出ていく中、杏子は一人の男子生徒を呼び止めた。


「宮下くん」


 宮下一誠だけでなく、隣にいた田上優來も一緒になって彼女の方を向いた。二人が男女の仲だということは教師の間でも有名だった。


「進路についてちょっと話したいんだけど、今から大丈夫?」


 宮下が田上に目配せした後、「はい大丈夫です」と言った。


「さき帰っとけよ」


「うん、わかった」


 去ろうとする田上を杏子は止めた。


「悪いけど、田上さんも一緒に聞いてほしいの」


 田上が怪訝そうな顔をした。恋人の宮下と顔を合わせ、互いに首を傾げた。当然の反応だろう。恋人といっても他人の進路を、何故一緒に聞かねばならないのだと不審に思ってるに違いなかった。



 教室は、教師と生徒の三人だけとなった。机を四つ並べて、三者面談の形にした。対面するように座る宮下と田上は、不安そうな面持ちを隠せていなかった。


 杏子は隣の机に置いたA4サイズの封筒を手に取り、それを宮下に渡した。


「これは……」


 受け取った封筒をしげしげと眺めていた。


「指定校推薦の出願書類よ」


「え?」


 疑念の宿った彼の目が、突如光が差したように大きくなった。


「え、てことは……」


 杏子は頷いた。


「おめでとう。校内二次選考、通過したわ」


 数秒間、宮下の顔は目と口を開いたまま固まっていた。やがで口角が上がっていき、恋人の方を向いた。田上もまた、驚きと喜びが混ざったような表情で宮下を見ていた。田上は既に一次選考を通過していて、二人は同じ大学を受けることになったのだ。


「ありがとうございます」


 二人が座ったまま深々と頭を下げた。


「宮下くんが頑張ったからよ」


 顔を上げた宮下の目が潤んでいた。


「そういうことだったんですね」


「そういうことって?」


「優來を同席させた意味ですよ。俺たちが喜ぶと思って、そうしてくれたんですよね」


 杏子は微笑んだ。


「違うわ」


「え、ならどうして」


 杏子は、宮下が持っていた封筒を取り上げた。彼は教師がとる行動の意味がわからなそうだったが、依然表情は喜色だった。


 その緩みに緩んだ顔が、みるみると恐怖の色で染まっていったのは、杏子が二人の目の前で封筒を真っ二つに破ったからだった。


 宮下は無惨になった出願書類と杏子の顔を交互に見ては、口をぱくぱくとさせた。田上も唖然として、体が硬直しているようだった。


 破れた封筒の中から半分になった書類を取り出し、宮下に見せた。


「これはコピーよ。本物はこの机の中にある」


 杏子は隣の机を指で叩いた。


「どういうことですか」


 何とか声に出たといった感じだった。宮下と田上は教師の奇行に怯えているのか、こめかみから汗が流れていた。それとも、もっと別の理由があるのか。


「私の婚約者……」杏子は言った。「加味根先生がどこに消えたか教えなさい。さもないと、あなたたちの指定校を取り消すわ」

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