口紅は真っ赤で嘘

池田蕉陽

1



 息が荒くなっていた。頭もどうにかなりそうだった。震えそうな体を、握り拳に力を込めることによって抑制した。右手の中には、彼女が愛用する口紅が収められている。母から誕生日プレゼントで貰ったものだった。


 今ならまだ間に合うのではないか。その思いはあの日からあって、今も健全だった。だが先生が黒板に背を向けふとした拍子に目が合った時、田上優來たがみゆらはその考えを払拭しなければならなかった。


 教諭の名前は加味根悠介かみねゆうすけ。三十代半ばで、正義感のある男だった。正義感といっても校則に厳しい類ではない。いじめや進路など、生徒たちの悩みに真摯な姿勢で向き合うタイプの教師だった。なので彼は生徒から熱い信頼を得ていた。


 熱い信頼を得ていたのに、クラス全員で加味根を殺す計画を企てたのは、それが思いもよらない形で崩されたからに過ぎなかった。


 加味根が教科書の朗読を始め、再び板書に入ったタイミングで隣席の宮下一誠みやしたいっせいが静かに立ち上がるのが気配で分かった。優來は息を飲み込み、横目で彼の様子を窺った。緊張した面持ちだが、目だけは憎悪に満ち、何にも惑わされない鋭さがあった。


 宮下が足音を潜め、5kgのダンベルを握り教卓に近づいていく。ダンベルが小刻みに震えているのは、重さによる筋肉の悲鳴でないのは確かだった。


 誰もが板書していた手を止め、優來を含め彼を見守っていた。その時間は一瞬とも長くとも感じられた。


 宮下が加味根の真後ろまでやってくると、気配を感じたのか、加味根は振り向く素振りを見せた。だが振り向く前に、宮下がダンベルを持った手を上にかざした。


 ゴンという鈍い音と誰かの悲鳴が同時に聞こえた。


 加味根は、糸を離された木偶の坊のように倒れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る