第32話


 広がる黒い霧のようなもの。その正体は無数の蟲だ。


 セシルが体内で飼育している瘴気を持った蟲。

 

 刺されるだけで人を昏睡させ、貪欲な食欲は数秒で人の身体を食い尽くす


 そんな蟲らが。伊吹を飲み込まんと上下左右に散った。


「気を付けなさい、伊吹。その蟲に呑まれたら骨すら残らないわよ」


「鬱陶しいのう!」


 迫る黒の塊はまさしく一つ意思を持つ群体である。


 一匹一匹相手をしていてはどう考えてもジリ貧だ。


 牡丹のように火薬で吹き飛ばすのが一番楽なのだろうが、残念なことにそんな便利な品は持っていない。


(出し惜しみは無しじゃな……!)


 手札を切る判断は早い。


 伊吹に流れる鬼としての瘴気は実際問題とても少ない。


 いくら鬼の子孫とはいえ何世代も前の話だ。その血が薄れるのも無理のないことだ。


 漂う瘴気を体内で変換出来るので時間が経てば回復するが、干渉打撃の使用回数は一日五回程度が限界。なので基本的には長時間の運用は出来ず、情報を集めきった締めに使うのが定石であるが、そうは言っていられない状況に今はある。


 昼の人狼戦で二回。先程朔夜の体を調べる際に使った物で一回分。現状使えるのは後二回で、そのうちの一回をここで使う。


 握った拳で狙うは蟲ではなく、その向こうにある『群体』そのものへの打撃だ。


「はぁあああ‼」


 一度の打撃は一匹の蟲に対してだけ及ぶのではなく、群体全体へと浸透した。


 接触箇所から衝撃は流れていき、蠢く一列の黒い帯は大蛇のように波打ってその羽を止める。


 ボトボトと、それぞれが小さな体である蟲とは思えないような重なる重い落下音がその密度を表していることだろう。


 そんな黒い塊が落ちる向こう側から風が来た。


「────っ!」


「聞いてた通り、不思議な技ねぇ。東洋の神秘、ってやつかしらぁ?」


 交差した両腕に痺れが走る。セシルの動きはその華奢な肉体からは想像出来ない強さを持っていた。


 セシルの蹴りをなんとか阻むも、その靴底にある長い一本の出っ張りが深く腕に食い込んでしまう。即座に一歩下がり、引き抜く。


「あら、凄いわねぇ」


 余裕あるセシルに対して肉薄の攻撃を仕掛ける伊吹。


 左の連撃で距離を掴みつつ右拳を腰だめに構える。狙うは一撃必殺だ。


 だがそれはセシルの軽く弾くような手の動きだけでいとも簡単にいなされた。


「人間にしては力あるのねぇ。いえ、これはどちらかというと私達側の人種なのかしら?」


「涼し気に流しおって、誉めてるつもりか……‼」


「当り前じゃない。私とぼくちゃんとじゃ生物として次元が違うのよぉ」


「余裕こいとれ!」


 牽制として放つ廻し蹴り。廻す、というよりは背面から体を半身にして放つ直接的な軌道だろうか。


 伊吹の右足は真っすぐにセシルの顔面へ向かうが、しかし首一つ横に振るだけで難なく回避された。


 だがそれはあくまで牽制。上げた右足をそのまま真下へと下ろせば、蹴りの分だけ距離は詰まって拳が近くなる。


「まずは一発……!」


「────⁉」


 先ほどまでは左手が前で右手が後ろの構えだったが、半身入れ替えたことでそれは逆転してセシルに対し右手が前となった。


 今度は後ろとなった左拳を引き絞る。


「二発目じゃ‼」


 顔面への最短距離を通って、正拳突きがその鼻っ柱へと叩きつけられた。



 だが……



「ね? 言ったでしょぉ?」


 ペロリ、とセシルは鼻先に叩きつけられた拳を舌で舐めた。


 指の背で感じるその冷たい感触に慌てて拳を引いた伊吹はセシルの笑みを視界に収める。


「……なにがこっち側じゃ。明らかに別物だろうが」


 全力で放ったその一撃は本来ならまさしく鼻っ柱を折る威力を持つものだが、しかし目前に立つ化物には鼻血を出させることすらなお足りない。


「じゃあ……」


 セシルは手を動かしてそっと伊吹の腹部付近に指先を添える。


「──っ⁉」


「遊びは終わり、ね」


 脇腹に五つ風穴が空いた。セシルの指が伊吹の体を貫いて、そのまま内臓を撫でまわす。


「っ……‼」


「私ねぇ、人のお腹のなかって大好きなのぉ。あったかくて臓器の鼓動を感じて、あ、生きてるんだなぁって指先からその人の命が伝わってくるじゃない?」


 言いながら、その爪で引っ掻くように伊吹の内臓を弄繰り回す。


「吸血鬼って冷え性でねぇ。でも、こうしてると体温が私を温めてくれるのよぉ。そして段々熱は失われて、動かなくなっちゃう。悲しいわよねぇ」


「いかれてるのう……‼」


「酷いわぁ。そんな悪い子には必要よねぇ。────お・し・お・き」


「⁉」


 セシルの指先から蠢くなにかを感じた伊吹は、全力で後ろに跳んだ。


 掴まれていた内臓の一端が勢いで千切れるのを体内に感じるも、それを考慮している暇はない。


 一歩離れた伊吹は、目線を腹部へと向けて即座にその腹を拳で殴りつけた。



「かはぁっ‼」



 腹部を叩いた伊吹は口から大量の血を吐く。傷ついた臓腑を更に殴りつければ当然だろう。


 だがその代償を払ってまでもそんなことをしなくてはならなかったのには理由がある。



「あらあら、私の可愛いプレゼントを壊しちゃうなんて、やっぱ悪い子ねぇ」



 風穴に指を突っ込み、触れた異物を引っ張り出してみれば、それは通常より一回りは大きいムカデのような蟲だった。


 セシルは伊吹の体内に入れたものだ。放置していれば内蔵がこれに食いつくされていたことだろう。


「……絵葉の言う通りじゃ、趣味が悪い」


「まだ偉そうな口をきけるなんて、少し腹立っちゃうわね」


 セシルは伊吹の様子に目を細め、腕を振るう。


 長い爪は鋭利な刃物のように容易く肌を破り、そこから血が溢れた。


 当然その一振りで終わるわけがない。


 二度三度四度五度六度……


 軽やかな動きは舞のように、振るう仕草で上がる血飛沫は花のように。


 首筋や腱といった致命傷を伊吹はなんとか避けるも、連撃は確実に命を削っていく。


 ブレる視界は出血が多いということが要因でもあるが、しかしそう感じるのはなによりもこの近距離においてすら目線が追いつかないほど、ただ単純にセシルの速度が速いからだ。


 伊吹のような武芸者の足捌きではない、上位吸血鬼特有の身体能力任せな動き。


 しかし、だからこそその力任せは対策の打ちようがない武器でもある。


「ほらほらほらぁ! いいことぉ? ぼくちゃんみたいな下等生物じゃいくら足掻いても勝てるわけないのよぉ!」


「ぐ……」


「武器? 武術? そんなもの圧倒的な生物格差の前じゃなんの意味もないわぁ!」


 荒れ狂う乱舞は嵐のように伊吹の体を刻む。もはや全身は血に染まって服は真っ赤だ。


 そんな二人を眺める絵葉は、しかし慌てていない。


 冷静に、ただ一言問う。そうなのかしら? と。


「──どうなの? 大江伊吹。私を何度も殺した貴方のその技は、本当に無意味なのかしら? 貴方に賭けた私は愚か者だったのかしら?」


 エヴァリエン・ヴァニーシャは確かに大江伊吹という人間に負けた。


 それは今とまったく同じ状況だった。生物として圧倒的なアドバンテージを持ち、単純な力のみで私はこの男を確かに追い詰めた。


 だが負けた。どうやって、などという疑問は今更無粋だろう。


「……馬鹿を言え」


 乱舞の中、伊吹は笑う。


 余裕があるわけでない。諦めたわけでもない。


 首筋を隠すように防御しているその腕の隙間にセシルが見たのは……


(……楽しんでいる⁉)


 余裕を持った、愉快な笑みだ。


「確かに人は弱い。……だから知恵を絞ったんじゃ」


 言葉とともに伊吹は動く。


 致命傷を避けるだけだった防御の構えを解き、左手を軽く前を突き出す形に。

 

 当然空いた場所に向かってセシルは爪を差し込む……が、


「効率の良い動かし方。力の流れ方。それを理解し……」


 弾く。目にも止まらぬ速さと言えるその貫き手を、伊吹は片手一本でいなした。


「……一の力を十に至らせる」


「……⁉」


「武器とは、武術とは、武とは……。弱き者が強き者に勝つ術じゃ。如何に強き者がいても儂らはいつかその領域に届く。……いや、届かせる! それが人間の強みじゃ!」


 視覚で反応したわけじゃない。単純な予想だ。


 伊吹が強くなったわけではない。要はこの攻防で伊吹はセシルという降魔を理解したのだ。


 この降魔は強い。


 それは間違いないだろう。今までの生においてきっと苦戦したことなどないはずだ。


 ならば当然、敵が急所を空けたならそこを突く。


 なんの牽制や段階もなく、ただその並外れた腕力と膂力をもって……


 当然の判断だ。なぜならそれで相手は死ぬのだから。


 強者には下手な小細工など必要ない。隙を見つけ、殴る。それで今まで相手が死んで来た以上、それより難しいことを学ぶ必要はない。当然のことだ。


 しかしそんな攻撃、防ぐ手段はいくらでもあるというのが伊吹の認識。


(所詮は技無き力じゃっ!!)


 駆け引きも技術もない力など、決して自らの命へ届かせない。


「黙れぇええええ‼‼」


 初めてセシルの顔が歪む。明確な怒りをもって彼女は大きく後ろへ跳び、全身を震わした。


 現れたのは無数の蟲。


 最初の一手で繰り出したそれと桁違いの蟲は全天を覆って完全なる闇を作り出した。


 呑まれれば一瞬にしてその身が蟲の餌となるだろう。


「同じことじゃ!」


 しかし無意味。


 崇道の拳には意思と共に紋が浮かんだ。


 そして先程やったように群体という概念に対してその拳を叩き込む。


 それにより危機を脱する。


 だがこれでもう干渉の力は使用できない。それを理解しているのは伊吹だけではない。


「ユーリちゃんから聞いてるわぁ。ぼくちゃんのそれはそう何回も使えないってねぇ!」


 既に昼に二回使用しているとユーリは言っていた。


 そして蟲の支配者であるセシルは、その力を利用されて自分の位置が逆探知されていたことをとうに察知している。


 それにさっきと今のを加え、合わせて五回。


 唯一不死の自分を殺し得る、干渉の力はもう打ち止めだ。


 いくら目前の人間が技術的に優れていようと、あの異能無しでは自分に致命的なダメージを与えられない。それはもう体験済みの事実だ。

 

 だからセシルにとって、既にこの段階に至った時点でチェックメイトなのだ。


 あとはジワジワと削るだけ、いや、あの出血量だ。こちらがなにをしなくても勝手に死ぬだろう。


 だが油断はすることはない。なによりそれでは侮辱の代償を与えられないから。


(──私の手で殺してやるわ!)


 セシルは静かに闇へ紛れる。


 狙うは致死の一撃。


 背後から迫り、首をさっと刻んで終わらせる。


 そう判断し、この世界に現出した……その瞬間だ。


「────後ろか」


「っ⁉」


 なんともないように、伊吹はそれだけ言うと背後へ廻し蹴りを行った。


 ちょうど闇より浮かび上がってきた瞬間に放たれたそれは、セシルの腹を直撃した。


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