第31話
上からの声。ひどく艶かしい、それでいて気色の悪い女性の声がする。
「ふふふ、ユーリちゃんの口車に乗ってこんな島国に来てみれば、貴方までいたなんて。道理でここ数年ヨーロッパで見なかったわけね。『ヴァンパイアハンター』のエヴァリエン・ヴァニーシャちゃん」
「そっちこそ。第二位の大物がわざわざ出張って来るとは驚きよ」
「……なんじゃ? 『ゔぁんぱいあはんたー』って?」
話とワードについていけず首を傾げる伊吹に、絵葉は数舜思考し、
「……こっちの言葉で言うなら『吸血鬼殺し』ね。あっちにいた頃付けられてた二つ名よ」
苦々しい表情の絵葉。
「……眷属化解除するため上位者を片っ端から殺しまくってたから、変な名前つけられちゃったみたい。可愛くないから嫌いなのよ。……それにしても意外ね。下位者であるユーリの提案に乗ってたなんてね。『蟲師』コルネリア・ファン・セシル」
「重要なのは誰が言ったではなく何を言ったか、よ。それを理解してない程愚かじゃないわ。素敵じゃない、私達ヴァンパイアがヴァンパイアらしく生きられる国を建てるだなんて。年甲斐もなく燃えちゃったわぁ」
家屋の屋根から下りてくるセシルと呼ばれた女。
フワリと風に揺れる腰巻は煌びやかで、この闇夜に燃えるような赤い髪が目立つ、妙齢な女性だ。
「まあ彼のちまちました計画に付き合いきれなくなったから、こうして手っ取り早くこの国を潰そうとしてるんだけどねぇ」
下から見上げただけでは一見、ただの人間にしか見えないセシル。
相変わらず噛みそうな異国の名前を脳内で処理するのに時間がかかっていた伊吹だが、そういえば、と一つ聞き逃せない単語について尋ねた。
「この女子が第二位じゃと……?」
「ええそうよ。私が四位でユーリが三位。そしてこの女は更に上にいる私たちの上位者。言っちゃなんだけど強いわよ。……しかも相当ね」
────第二位吸血鬼
絵葉の話によれば吸血鬼の位は始祖との血が近しい程上がっていき、なおかつそれに比例して単純な身体能力・権能なども強くなるとされている。
第二位とはつまり、始祖からすれば孫の距離に値する眷属であり……ユーリよりも格は上になる。
「あらあら、そこまで褒められると照れちゃうわ。……いくら本当だとしても、ね」
舌なめずりするセシル。彼女が発する圧は確かに本物のそれだ。
初めて絵葉と会ったときにも感じたことだが、生物としての次元が違う。
それを認めざるを得ない強さを、目前の女は持っている。
「でも安心してぼくちゃん。私、野蛮なことは嫌いだから戦う気なんてないの。だから……そんな熱い視線で見つめられると困っちゃうわぁ」
「随分余裕そうじゃのう」
「当然じゃない? だってこの場に……」
消える。
目の前にいたはずのセシルが、突如としてその姿を消した。
足音も砂塵もなく、気配だけは残しながら。
吸血鬼連中がよくやる闇に紛れた移動方法ではない。
ただただ単純な加速による挙動なのは、一筋吹いた風の揺らぎで伊吹には理解できた。
理解できたゆえに恐怖する。
その始動から移動までの全行程において、視界に捉えることが出来なかったことに。
そして……
「────私に敵う人なんていないもの」
伊吹の耳元からささやく声が教えた。
どれだけこの化物が凡その降魔を超越した存在であることを。
伊吹の体に腕を回し、セシルは抱き着く形で現れる。
彼女は紅に塗られたその口を開け、吸血鬼特有の鋭い犬歯をちらりと見せた。
眷属化するためのその行為に伊吹はなんとか反応する。
「────っ!」
「あら」
巻かれていた腕を振りほどき、そのままセシルをぶん投げた。
しかしセシルは体勢を崩さず、身軽に着地する。
「あらあら、せっかくのお誘いを断るなんて、ジェントルマンにあるまじき行為よ」
「無駄よ。極東の馬鹿猿にマナーなんてものを期待するのなんてね」
「っく! 『まなー』なる単語はわからんが馬鹿にされてることはわかるぞ……!」
非常に無礼な空気だけはわかる!
「で、どういたします? 二人がかりならなんとか、なんて思ってるなら勘違いよ」
投げられたことなどどうってことないという様子で、セシルは問いかける。
答える絵葉もまた、同じく様子を変えない。
「そりゃそうでしょうね。階位が一つ違うということはまさしく桁違いの戦力差だということを、私は理解してるわ。下位者が上位者を殺すのには入念な準備と時間が必要なわけで、それがない現状私が協力したところで大した意味はないわ」
「あら。随分物分かりがいいのね」
「なに最初から諦めとるんじゃ!」
やれやれ、と首を横に振る絵葉。お手上げの格好をし、はっきりと自分では役に立たないことを認める。
「話は最後まで聞きなさいよ。言ってるでしょ?『私が協力したところで意味ない』って」
だから、と絵葉にやりと笑う。
「──あんたの相手は伊吹一人に任せるわ」
「……はぁ?」
思わず驚きの声を漏らしたのはセシル。
まったく予想していなかった絵葉の任せるという発言を自分の聞き間違えだろうかと勘違いする程だ。
だがそれは間違いなく彼女が放った言葉であり、決して聞き間違えではない。
「絵葉よ、確かに基本的にいつもの儂は一騎打ちを望んでおるが、状況が状況じゃ。いつもの怠け癖はなしにして少しは手を貸さんか」
「嫌よ。私は無駄な努力はしない主義なの。あんたがあいつを倒せないようじゃ私が手伝ったところで結局勝てない。なら最初から全部任せる方が合理的でしょ?」
「……舐めてるのかしら? そんな極東の猿が、私より優れていると? 少なくともその可能性を持っていると? ……私にはそう言ってる風に聞こえたのだけれど?」
「舐めてないわよ。私は事実を言っているだけ。────いい、伊吹? 私はね、あんたの強さにオールインしてるの。アンタを使って私は兄も、クソッタレの始祖も、全部ぶっ殺そうとしてるのよ? ……この程度の相手に勝てないなんてこと、許さないわ。それとも……」
絵葉は伊吹に向かって語りかける。
そう。この程度に勝てないのならわざわざこの男と契約を結んだ意味がない。
私の復讐という目的を果たすために、こんなところでつまずくわけにはいかないのだ。
私を吸血鬼にした兄への復讐。
世界各地で見て来た吸血鬼というおぞましい種への復讐。
なによりも、そんな吸血鬼というものを作り出し始祖への復讐のために……
絵葉はにやりと口角を上げ、精一杯の嫌味を込めた表情を浮かべる。
「────びびってんの?」
一言。短い旅路の供だが、絵葉は既に理解している。
この単調な男には、その一言で充分だと理解している。
「上等じゃ……‼」
ちょろいな、と思う反面その単純さがどこか羨ましく思えた。
吸血鬼となってから百年以上。
体の成長と精神の成長が止まり、永遠の十四歳だということは間違いないが、それでも経験という思考回路がいつの間にか形成されている。
こういう人間らしい反応というものが懐かしく感じる。
だが真っ向から挑発されたセシルは違う。
吸血鬼というのは基本的に重度の純血主義者だ。
血統主義でも人種主義でもなく純血主義。
どれほど色濃く始祖の血を受け入れているかが、彼らにとってのステータスになるのだ。
吸血鬼に成る以前はその手の思考はなかった絵葉ですら心の奥底でソレに似た観念を持っているあたり、眷属化した際植え付けられるものなのだろう。
そしてその傾向は上位者ほど強くなることを、過去の経験から絵葉は知っている。
故に、いくら余裕そうに振る舞うセシルであっても、下位者である絵葉に挑発されるということは筆舌に尽くしがたい侮辱と捉えてしまう。それが意味するのは……
「────あらそう」
度し難い怒りを生み出すということだ。
「────ならさっさと終わらせて、そのあり得ない妄想を否定してあげるわぁ!」
怒気を孕んだ咆哮の後、セシルを中心に黒いなにかが広がる。
セシルの体内に巣くっていた無数の蟲が、彼女の意志を載せて伊吹の視界を塗りつぶした。
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