第25話

「いらっしゃいませ! お、あんた昨日も来てた人かい。あんまし見ねえ顔だが、最近こっちに来たんか?」


「まあそんなところじゃ。大人一人」


 適当に挨拶して代金を払う。一度来たことあるものだから慣れたもので、貸出してくれた手拭いを肩にかけながら『男湯』と書かれた暖簾の方へと進む。


 このように男と女で分かれているのは珍しいことだと朔夜が言っていたのを思い出す。


「……ん? ちょっと待った」


「どうかしたか?」


 暖簾の向こうへと行こうとしたとき、番台の親父がこちらを呼び止める声がした。


 その目は帯にぶら下がる朱房へと向けられている。


「……旦那。もしかしてあんた、同心かなんかかい?」


「まあ、一応そうじゃな。今日からの新米じゃが」


 言うと、番台の親父は途端に表情を崩して親しげに笑いだす。


「なんでぇ、それならそうと先に教えてくれよ。危うく他の湯屋仲間に笑われちまうところだったぜ。そういうことなら旦那はあっちだぜ」


 ぐいっと親指で指し示すのは男湯の逆方向。つまりは女湯のほうだ。


「どういうことじゃ?」


「旦那は新人だから知らないのも無理ねぇか。同心っていうのは俺ら町民の生活を守ってくれる仕事だろ? そんなお方らには一層ゆっくりして頂こうってことで、こういう男共が仕事終わりで混み出す時間帯には女湯の方を使ってもらおうって取り決めてんだ」


「いや、しかし女子がおるのでは……」


「この時間は来やしないよ。大概夕餉終わりってあたりかね。実際、朝に何人か来た程度で今はいないぜ。なにより旦那も一番風呂は好きだろ? 今は午後の炊き立てだ」


「それはまあ、好きだが……」


「そうと決まれば話は早い。さあ行った行った!」


 親父はこちらの肩を叩いて入るように促した。女湯と書かれた赤い暖簾に違和感と言うか威圧感を受けつつ歩を進める。


 内部は男湯の方となんら変わりない造りで、びびりながら衣服を脱ぐ。


「……これ、どうすればよいのだ?」


 手に持つのは十手と刀。大切に、取られないようにしろと言われた以上そこらに放り投げておくわけにもいかない。だが保管出来そうな場所がないことも確かだ。


「……まあええか」


 店主に預ける、という選択肢もあるがそれはそれで怖い。


こういうときどうすれば良いのかというのは後日朔夜に聞くとして、取り敢えず着ていた服の山の中に放り込んでおくことにした。


「し、しつれい……」


 普段より腰を低く、遠慮がちに浴場へと入る。


 浴場にはピタンピタンとどこかで雫の弾ける音と、立ち込める湯気だけ。人の気配はない。


 そのことに安堵した伊吹はようやくいつもの落ち着きを取り戻せた。


 まず向かうは桶が置いてある場所だ。一つ貰い、お湯を汲む。


 米ぬかの入った袋をそこで揉めば湯が白く濁る。濡れた袋は体を洗う役割だ。


 全身をさっとそれで拭い最後は桶の湯で掛け流せばあとはお待ちかねの湯船だ。


 親父が言うだけあって、お湯はまだ目立った垢汚れなどはない。


 時間も良かったのだろう。今はちょうど町民の仕事が終わるか終わらないかといった辺りだ。


 故に湯屋もお湯を本格的に炊き始める時間で、つまりは熱い。


 朔夜は熱い湯こそ江戸っ子の華と言っていたが、しかし江戸っ子ではない自分でもその良さはわかるつもりだ。


「あぁ~~~」


 思わず声が漏れる。


 西国にいたころ、体を清めると言えば近くの滝に行くか偶に誰かが殴り合いに負けて汲んできた水で風呂を作るぐらいだ。それも月に一日あるかどうかというものだった。


 なのに、いや、だからこそだろうか。熱い風呂、熱い湯というのは個人的になによりの癒しとなった。こうして夕方から入れるなどまさしく極楽だ。


 ピリピリと刺激されるような熱さ。自然と目は閉じられてその湯に沈んでいく。


 何分たっただろうか。いつの間にか顔や皮膚は茹でられた蛸のように赤い。


 長時間も熱い湯に浸かっているのは危険だ。湯冷ましとして一度上がり、周囲を見渡す。


「これは……」


 大きな湯船とは別に、もう一つ中くらいの湯船が並列されている。


 そこは普通の湯とは違い淡い緑の色を醸し出している。浮かんでいる幾つかの小袋と掛けられた札曰く……


「よもぎ湯か」


 緑の正体はよもぎの葉から染み出したもののようだ。


 いわゆる薬湯といった類の代物で、この湯屋は季節や行事毎にこういったものを用意している。


昨日は気付かなかったが朔夜にその話を聞いて是非とも使ってみようと思った具合だ。


「ふーー」


 浸かる湯は普通のものよりも幾分か温い。しかしそれが悪いというわけではない。


 散々熱せられた体にはむしろ嬉しいもので、程よい温度にずっと入っていたい欲求に駆られる。


 体の芯まで温められる感覚はよもぎの効能だろうか。先程までの直接的な熱さとは違い、奥底から温度が上がっていき、汗が額から滲んでくる。



 

 湯に浸かっている。

 

 そんな実感と心地よさを得ながら、伊吹は意識を遠くにはせる。

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