第14話
二人は声を聴いたと同時にそちらの方へ駆けて行った。
押し寄せてくる人の波に逆らいながら。しかしぶつかることはなくその場を走り抜ける。
辿り着いた先、ざわめきが強い。逃げ惑う人は既に去り、ここにいるのは場の混乱に取り残された人なのだろう。
「きゃぁあああ‼‼」
つんざく悲鳴。少女のものだ。辺りを見回せば……
────いた!
少女が二人。
一人は幼く、もう一人はその姉だろうか。
降魔は、全体として人型。体は毛に覆われ、頭部は狼を連想させる。
腰を抜かして後ずさりする妹と、そんな異形の怪物の間に少女はいる。
妹を背に、降魔を見据えているのだ。
「……っ⁉」
声にならない嗚咽。少女はあまりの恐怖に動けずにいた。……だがその目には決意がある。
……凄いのう。
素直にそう思ってしまうし、尊敬する。
半人半獣の降魔を相手に、少女は臆することなく立ち向かっているのだ。
年端もいかない妹のために、敵わないことを知りながら逃げずに……
だからこそ、そんな少女を見殺すわけにはいかない。当然のことだ。
「────ァアアア‼」
降魔はその鋭い爪をもって少女を裂かんと、振り下ろした。
人間離れした筋力から放たれる一撃は、幼い少女の命を刈り取るには充分な殺傷力を秘めている。
それに対し伊吹は、
「────邪魔じゃあ‼」
思考の終わりと同時には既に接敵していた。
それが少女に達するよりも早く、移動の勢いをつけた拳の一撃。
抉るような鳩尾打ちで、力づくで無理矢理、凶暴な爪と少女の距離を引きはがせた。
「ゥウ!」
突然の襲撃に降魔は息を吐き出した。
「伊吹‼」
自分の名前を呼ぶ声。群衆を抜けるのに手間取ったのか、そこには一足遅れて辿り着いた朔夜の姿。
「これは……」
「降魔、だろうな。しかし見たことない種類じゃ……」
降魔の多くは大概、妖怪変化の類にその身を変える。
それは大衆が持つ恐怖の感情を具現化した存在であるからだ。
しかし目前の降魔はそうではない。
山で多くの降魔を見てきたが、そのどれとも合致しない見た目だ。
自分が無知であるだけかもしれないが、思い当たる逸話やら神話などもない。
見た目から言うならさしずめ人狼とでもいうところか。
その降魔は腹部の一撃に息が荒くなり、地を這うような唸りを上げた。
警戒、もしくは威嚇の表れだ。
その野性的な行動に、どうやら知性は獣の方に振れていると判断できる。
すぐに襲ってこないとはつまり危害を加えた自分を観察、及び値踏みをしている最中なのだろう。
山でよく見た、獣が暴れ出す前兆だ。
だからこそ余裕はまだある。
「……大丈夫か?」
「は、はい……」
振り返り、そこにいた少女と目線を合わすように膝を曲げた。
少女は状況を把握できないようで、目線が忙しない。
十二か十三といったところか、そんな年若い少女はしかし助かったということだけは理解したのだろう。
その目尻に安堵からの涙を浮かべた。
しかし泣き出すことはせず滲んだ目頭を振り払い後ろにいた妹を抱きしめた。
自分より怖かったであろう妹を心配したが故に。
……お主も怖かったじゃろうに。
そんな少女の頭に伊吹は軽く手を置いた。
ガシガシと、幼い頃に義父がよくやってくれたように、女の子に対してちょっとガサツな感のある手つきで撫でた。
「────よくやったのう」
「あ、ありがとうございます……」
振り絞るようなか細い声。恐怖で引きつった喉を震わせて、その手から伝わる力強さに安心感を覚えながら礼を言う。
さて、と。立ち上がり、振り返る。
「朔夜。お主はこやつらを連れて行け。後は周りの奴らを落ち着かせなきゃ危ないのう。儂はこいつの相手をせねばならんから、そっちも任す」
「待て。なぜ貴様が残る。この程度私が……」
「儂のようなようわからん奴が民草に避難せい、と言うたところで誰も聞かんじゃろう。顔の知れてるお主がやる方が合理的じゃ。違うか?」
「そ、その通りかもしれんが……」
「それにまだ降魔は何処から出てくるかもわからん。お主が守らんでどうする。……さっきのやり取りを見ればわかる。お主は信用されている。きっと皆が耳を貸すだろうて」
「……了解した。一応言っとくが、死ぬなよ」
「冗談。儂がこの程度に負けるわけなかろう」
言う通りだ。
辺りにはまだ逃げ遅れた民衆がいる。
こういった状況で怖いのは降魔だけではない。
混乱による将棋倒しのような事故も充分危険だ。
落ち着かせるには同心であり将軍家である自分が出張ることが最適だろう。
それに気になるのは……
「伊勢も篠原先輩もまだ来てないのも気がかりね」
「既にどこぞで同じようなことが起きている……なのだろうな」
結構な騒ぎであるし、最初の悲鳴が聞こえた段階では彼女らとそれ程離れていたわけでもなかった。
きっと聞こえていたはずだ。
同心という職務を考えたとき、騒ぎを無視しているとは考えづらい。
であるなら彼女らもなにかに巻き込まれているのかもしれない。
その考えを答え合わせするように、ボゥッ‼ という爆発音が響いた。
遠くはない。向かいの区画程度の距離だろう。
しかし恐怖した民衆にとってそんな判断は出来ない。
その音に対して周りの人々は一層の混乱を引き起こした。
「行け!」
言葉に朔夜は下を見る。小さな女の子が二人、不安そうに伊吹を見つめている。
「大丈夫よ。このお兄さん、結構強いから」
「結構じゃない。……かなり強いの間違いじゃ」
「だそうよ。……だから、行きましょ」
少女の手を取る。小さな手はこちらの動きに対して、強くその手を握りしめた。
まずはこの子達を安全な場所へ。そしてこの混乱を鎮める。
……こういうとき偉い家柄なのは便利ね。
その程度にしか使えないが、しかしそんなもので救える命があるのならこれ以上に嬉しいことはない。
頭の中で避難計画を順序立て、そして足に力を込める。
「あ、あの……」
走り出そうとしたとき、姉の方の少女が口を開いた。震えるような仕草から、
「が、頑張ってください!」
「────おうよ」
遠慮がちな叫びに、伊吹は軽く手を振って笑顔で返す。
なんでもないように、気軽な様子で。
「……さて、そろそろいいかのう?」
遠ざかっていく足音と対照的に、荒く力強い踏み込みが伊吹に向かって来ている。
獣が値踏みを終え、狩りをせんと走り出したのだ。
人狼は大きな歩幅で一気に距離を零にし、肉薄した。
「……上等じゃ!」
武道家の距離。両者は互いの拳が届く範囲に立つ。
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