第12話
「……悪かった」
「…………」
「……めざしを一匹やろう。機嫌をなおせ」
「……随分安い謝罪じゃのう」
「……要らぬなら要らぬと言え」
「……貰わんとは言ってない。……まあよい。これで取り敢えず手を打って……」
「朔夜様いらないのですか? では伊勢にくださいませ!」
朝の食卓。朔夜が皿の端にどかしためざしを横から伊勢がかっさらう。
「美味い! やはり佐鳥殿の作る食事は天下一品ですな!」
「うふふ、伊勢ちゃんの食べっぷりは気持ちいいわね。でも、他人の皿から取るのは行儀が悪いから駄目よ♪」
「これはお恥ずかしい。はっはっは!」
「……やっぱ儂、こいつ嫌いじゃわ」
「……すまない」
一部の重い空気を気にせず、伊勢と楽し気に語ってるのはこの長屋の大家。
松坂佐鳥さん。
長い黒髪は美しく、上品に着物を着こなしたその余裕ある佇まいは大人の女性といったところだ。
「それにしても伊勢ちゃん、随分ご機嫌ね。なにかいいことでもあったの?」
「はい! 朔夜様から友であり腹心と、そういったお褒めの言葉を頂きました故! ……そういえば伊吹、昨日の夜は邪魔をしたな! お前の言葉でこの伊勢、迷いが晴れた気分だ」
「……そりゃよかったわい」
悪い奴ではないのだろう。
純粋な奴なのだろう。
……ただどうしようもなく空気が読めないというだけで、彼女に悪意などないのだ。
だから二人は強く言えない。
屈託のない笑顔を見せられるたびになぜかこちらが申し訳なくなる。
「……はい。めざし」
「……すまんな」
一人三匹用意されていためざし。
朔夜の皿に残されていた最後の一匹を、今度は直接伊吹の皿へと移動する。
……思えばこれが朔夜から初めて受けた厚意だろうか。
こうして一歩距離を縮められたと考えれば、昨夜のことも悪くは……いや、やっぱ納得は出来ん。
盛り上がる二人とは対照的に、伊吹と朔夜は静かに箸を進める。
……あぁ、美味い。
「あ、そういえば牡丹ちゃん、帰ってきてたわよ」
「篠原先輩が……。そうですか。では後で紹介にでも行くか」
「────その必要はねぇぞ」
食卓に飛び込んできた声。
振り返った視線の先にいたのは柱に寄りかかっている小柄な、赤い髪の少女。
ねじり鉢巻きにまくった袖と、長髪であることを除けばぱっと見で少年のように思えるかもしれない。
「よう朔夜。伊勢は朝っぱらから元気だな」
「篠原先輩……。おはようございます。昨日は忙しかったらしいですね」
箸を止め朔夜は体ごと少女の方を向き、頭を下げる。
「おうよ! 結局徹夜でなぁ。ちょい前に帰ってきところだ」
「それは大変でしたね。しかしそんな忙しくなる案件は特になかった気が……」
「仕事だぁ? 馬鹿言ってんじゃねえよ、朔夜。仕事は暮れ六つ(十八時)までって決めてんだよ、俺は」
「? じゃあなんで……」
「祭りの会合に参加してたに決まってんだろ。もう三か月もねぇんだぜ!」
「またですか……。本当、好きですね。祭り」
「あたぼうよ! こちとら楽しみなんて祭りを抜いちゃあ、飲む打つ喧嘩に花火、後は喧嘩ぐらいしかないからなぁ!」
「充分多いですよ、先輩」
呆れながらも笑って、朔夜はそう言う。
「多かねぇよ。長げぇ人生、楽しいことは百あっても足りねぇってもんよ。……お、食わねぇなら一匹貰うぜ」
「あっ……」
残った最後のめざし。抗議する間もなく、篠原と呼ばれた少女は横からひょいと摘まんでそのまま口の中に放り込んでしまった。
「佐鳥さんの飯は美味いな。これも俺にとっちゃ数少ない人生の楽しみよ」
「ふふっ。それは最高の誉め言葉ね」
「ううっ……。私のめざしが……」
「なんでぇそんなにむくれやがって。一匹しか出さないケチな大家さんじゃああるまいし、そんぐらいで泣くこたぁねぇだろ」
しょんぼりする朔夜の背中をバンバンと叩く篠原。
無遠慮なその態度に、人のことを言えた義理ではないが、しかし良いのだろうかと思ってしまう。
(……なあ伊勢よ。彼女は……?)
(我々の上司で花火師で、同じくこの長屋に住む先輩だ)
(……なるほど。上司で先輩と……ってこんなガキがか⁉)
小柄な体躯に活発な態度。
見る限り十代の前半といった彼女の立ち位置に、伊吹は驚きの声を上げる。
(いや伊吹。牡丹殿は……)
「んで、お前さんが新入りか?」
「あ、ああ。大江伊吹じゃ」
「そうかい。俺は篠原牡丹。気軽に牡丹でいいぞ。仲間同士、気楽にいかなきゃな。朔夜もわざわざ先輩なんぞ付けなくていいんだぜ?」
「いえ。目上の人間には敬意を持って接するのが礼儀ですので」
「ははは! お姫様に尊敬されるなんて俺も出世したもんだな! 別にそんなこたぁ望んでないってのに。ただなぁ……」
牡丹は笑顔で伊吹の傍に寄って行く。
どっこいしょ、とどこかおっさん臭い掛け声をしつつ、彼女は伊吹の目前で、所謂うんこ座りをする。
「ただなぁ……」
「ん? ……うぉっ⁉」
そのまま伊吹の襟元を掴んで、締め上げる。
ドスの効いた声と表情で、
「────俺はなぁ、ガキ扱いされることだけは嫌いなんだよ。あぁ?」
「牡丹殿は一八歳。元服した大人だ。そこらへんを勘違いすると大層怒られるから気を付けろよ」
「……もう少し早く教えてくれんかのう」
「怒りやしないぜ。ただちょっとばっか教育するだけだ。なあ、朔夜?」
「篠原先輩は大人で素敵な女性で寛大な御心を持った最高の上司であります‼」
「おいおい、そう褒めるな。照れちまうじゃねぇか」
へへ、と鼻を掻く牡丹。
「──すまんかった。無礼が過ぎた許してください」
その異様な空気を察した伊吹は即座に謝ることを決めた。
両手を軽く上げ降伏の合図。
「おう。わかってくれればそれでいい。物分かりは良い方みたいだな。俺も鬼じゃねえからよ、朔夜ほど尖がっていなきゃ優しく出来るってもんだ」
言って、彼女は笑顔に戻る。掴んでいた襟首を緩めて立ち上がった。
……朔夜はなにをやらかしたんじゃ⁉
なにかの惨劇を思い出したのだろうか。
視線を向けると朔夜は顔を伏せながら体を震わしている。箸からはボロボロと米粒がこぼれるほどだ。
「さて、取り敢えず話は朔夜の姉ちゃんから色々聞いてるぜ。これからよろしくな」
「……あ、ああ。よろしく頼む」
朝の食卓。
味噌の香りと一緒に火薬の焦げ臭い香りが鼻腔をくすぐった。
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