第11話

 時は移り変わって深夜。


 長屋の大家が用意してくれた夕餉を食し、近場の銭湯で汗を流して帰ってくればもう眠る時間だった。


 他にも朔夜の同心仲間の何人かがここには住んでいるらしいのだが残念なことにその人たちと顔を合わせることはなかった。


 明日にでも紹介するとのことらしい。


 することもなく、長旅と伊勢との戦いで疲れた体は久々の風呂もあいまって即座に眠りへ誘う。


 雨風を凌げる場と柔らかい布団が揃うこと。それはどれほど幸福なことなのだろうか。そんなことを考えながら伊吹は意識を手離し、そして……


「────っ⁉」


 飛び上がるようにして起きた。


 幾らか寝入っていたのだがにも関わらず伊吹は即座に覚醒し、闇夜のなかにある僅かな光を逃さんとばかりにその両眼をしっかりと見開いた。


 寝ている瞬間が最も危険な瞬間だ。あのおっさんはよくそう言って、就寝した自分を殺す勢いで殴りつけていた。


 ……最終的に身に着いたのは短期睡眠術だけじゃったのう……。


 今では一刻(二時間)の睡眠で休息は充分という体になってしまった。


 便利は便利だが、寝ることが至上の楽しみである自分にとってそれはなんだか悲しいものがある。


 ……そういえば師匠は目を開きながら寝ていたが、あれはどうやってするのだろうか。


 最近絵葉から長ったらしく小馬鹿にされることが増えて来たため寝ながら話を受け流すあの技は是非とも習得したいものだ。


 とまあ、そんな訓練の甲斐あってかこうして寝ながらも周りの変化に多少は対応出来るようになった。


 実際あの山ではこの技術がなければ即死ぬので、有難いと言えば有難い。

 それがなぜ今発揮したのか。


「……誰じゃ」


 感じたのは空気の流れ。閉ざされた扉から流入した冷たい空気が伊吹の神経を刺激した。


 問う方向はこの部屋の出入り口。数舜の間に夜目に慣れた伊吹は来訪者の輪郭を把握する。


「……気付くとは流石だな」


 暗殺者かなんかだと備えていた伊吹とは対照的に声の主は随分緩い。


「……伊勢か?」


「あ、ああ。夜分遅くすまないな」


 少々上ずった声で答える伊勢。柄にもなく緊張しているようだった。


「ちょっと待て、今灯りを点ける」


 臨戦態勢を解いた伊吹は布団から抜け出して火を探した。枕元に置いてあった小さな木箱。


 そこに仕舞われていた木の棒を箱の側面に擦ると小さな火種が出来て、それを蝋燭に移す。


 ぼうっ、という音と共に光が部屋を満たして、ようやくお互いが姿を視認できるようになった。


「……それは?」


「絵葉が持っていた物でな。『まっち』とか言ったかのう。便利で重宝しとるんじゃ……って!」


 視線を灯りから伊勢に戻す。


 そこには確かに彼女がいた。想定していた通りに。


 ただ一つ、想定とは違っていた。


「なんじゃその格好は⁉」


「ね、寝巻だ。なにがおかしい……!」


「おかしいもなにも……!」


「い、伊勢は飯を食べ風呂に入り寝ようとしていた……」


「急にどうしたんじゃ……?」


 こんな長屋にいても伊勢は名家の娘。寝巻にも良いものを使っているのだろう。


 灯りに照らされて見えるのはその煌めくような上品な衣に伊勢は包まれていた。


 おそらく材質は上等な絹。


 透き通るその造りは丁寧で、僅かな空気の動きにも緩やかに舞う。

 

 そう。問題はそれだ。透き通るような、ではなく透き通っているということ。

 

 着用していたのは明らかにそういったものを目的とした寝間着。


 白い布地の奥には火照った柔肌が微かに見え、鍛えられた健康的な肉体がより一層美しさを醸し出していた。


「床に就きながら考えた。このままで良いのか? と。……一度考えだしたら急に不安になってきたんだ」


 赤く染まった顔と、慌ただしく揺れている視線からは彼女の動揺が見て取れる。 


「……い、伊勢はお前に負けてしまった。そのせいで朔夜様から呆れられてしまった!」


「いや、多分朔夜もそんなこと考えては……」


「だから!」


 伊吹の話を遮るように、彼女は大きな声で続ける。


「朔夜様の付き人として、桑名家の跡取りとして! ずっとお仕えするためにも私は強い子を産まねばならないのだ!」


「だからそんなことせずとも良いと思うんじゃが……」


「……伊吹、お前は強い。鬼の血統が入るというなら実家の者らも納得するだろう」


「……ちょっと待て。お主儂の話一切聞いておらんじゃろ。変なこと考えておるじゃろ」


 正直この段階でなにを言い出すかは察した。


 どうやら盛大な勘違いと考え過ぎで正常な思考を失ってしまっているらしい。


 半身起こした状態で伊吹は後ずさりする。


 一方の伊勢は少しずつこちらに歩み寄ってきて、その帯を解く。押さえつけられていた前ははだけて、見えてはならない箇所がちらりと見えた。


「お前はそれでよいのか⁉」


「ふ、ふん! それでこれから先も朔夜様と居られるなら安いものだ……‼」


「伊勢……」


 据え膳食わぬは男の恥、という言葉がある。


 自分も男だ。


 女性に慕われることは嬉しいし、女体に興味がないわけではない。


 このような状況に動揺しつつも期待が湧くのは事実だ。


「さ、先に言っておく。私はお前のことをまだ信用していない。だ、だから……。変な勘違いはするなよ‼ しょうがなくだからな‼ お前に体を許すなど恥もいいとこだ! すぐ終わらせろ! 今終わらせろ! 三つ数えるからそれまでに終わらせろ! いいな⁉ 一つ! 二つ! み、三つ! お、終わったか⁉」


「出来るか‼」


 しかし投げつけられた膳を拾って食うのはなんか違う気がする。


「なぜだ⁉ やはり伊勢のような筋肉女では興奮しないと言うのか⁉」


「いや、そうではなくてな‼」


「ひ、ひどい……。伊勢がこうして死よりも惨めな思いを我慢して、お前のようなよくわからん男に迫ったと言うのに……‼」


「そういう所だと言ってるんじゃ‼」


 馬鹿にされているこの状況で嬉しいもなにもあるか!


「ええい、もうよい! こうなれば力づくだ‼ さあ抱け!」


「ちょ……⁉ はやまるな! ……というか力強いな‼」


 伊勢は膝を崩して伊吹に覆い被さる。


 伊吹の両の手を片手で抑えて、余った右手は服を剥ぎ取らんと伸ばした。


「っく! 力で負けるとは……!」


 武人同士の激しい応酬。


 力で劣る伊吹だが、両手を使えないながらも脚と身だけで伊勢の攻勢をいなすのは流石の技術だ。


 そんな最中、伊吹はなんとか隙を見つけて体勢をひっくり返すことに成功する。


 ……寝技は鍛えておるんじゃ!


「どうじゃ⁉ 見たか‼」


「うう……」


 逆転だ。さっきまでとは反対に伊吹は伊勢にのしかかる形となった。


 二人がもがいた結果位置は動いた。窓から覗く月光が、伊勢の顔を照らす。


 ぶつかる視線に彼女は思わず恥ずかし気に顔を逸らした。


 そんな初めて見る、乙女のような様子に伊吹は思わず……


「……奇麗じゃな」


「んなっ⁉」


 無意識に漏れた言葉に、伊勢の顔はより一層赤くなる。


 数秒彼女は黙りこくって、そして意を決したように呟く。


「……なあ、伊吹」


「あ?」


 彼女は一度目を閉じて、再度ゆっくりと見開いた。


 頬を赤く染めながら……


「……優しく……その……頼む、ぞ」


 抑えていた手から伊勢の脱力を感じる。彼女はその身の全てを任せたのだ。


 据え膳食わぬは男の恥。その言葉を教えてくれたのは村上のおっさんだ。


 いつか外の世へ出るときのために、などと言って武以外の様々なことを教わったものだ。


 そのなかで要らんと何度も言ったが無理矢理教えられた科目……『恋愛』。


 思い出すんじゃ! 


 初めて師の教えに感謝する。


 散々無意味だと思っていた教えだったが、ここに来て役に立ってくれるとは。


 もしかして我が師は偉大な人物なのかもしれない。


 帰ったら立派な墓を作ってあげねばならん。


 そうだ。この科目を教わったとき、あのおっさんはこう言っていた。


~~~~~


『いいか伊吹。相手が好意で迫って来るんならしっかり受け止めろ。それが男の度量だ。だがなあ、そうじゃない、っていうんなら話は別だ』


『弱みや心の隙間に付け込むのは男が廃るからのう』


『いや、そうじゃない』


『……じゃあどういうことじゃ?』


 一口、彼は煙管を吹いてこちらを向く。


『好意以外から来る女の行動は……怖いんだよ』


~~~~~ 



 数秒、脳内で腹の古傷に手を当てながらそう締めた師の教えを反復させた。


 過去の記憶を頼りにこの状況を打破する方策を探る……が、


 ……いや、この教え役に立たんわ。


 やはりあのおっさんは無能なのだろう。


 帰ったら墓代わりの石ころに落書きをせねば。


 目の前に横たわる少女にそのような打算的な行動を出来る頭があるとは思えない。


 しかし回想のおかげで冷静にはなれた。故に改めて伊勢を見る。


「ど、どうした……? まだ来んのか……? それともやはり、私に魅力が……」


 時間が空き過ぎてしまったのか。


 伊吹の反応が返ってこないことに不安になり、目を開ける。


 普段こそ頭が空っぽとしか思えない、無骨者の伊勢。


 だがこうして恐る恐るしている彼女はやはり年頃の乙女なのだ。


 正直言ってそのいじらしい様子に心動かされるものがある。


 ……しかしそれを受け入れるわけにはいかない。


 このような動機で至るのは、誰も幸せにはならないからだ。


「……いいか? お主は弱くない。儂が保証しよう」


「嘘を言うな! わ、私はお前に負けたではないか。そんな慰めは要らぬ……」


「本当じゃ。先の立会いとてお主の技量は素晴らしかった。儂は武に関して嘘はつかん」


 それに、


「仮にお主が弱いとしよう。だからと言ってそれで朔夜がお主を見捨てたりするか? お主の主人はその程度で友人を切り捨てる冷たい者なのか?」


「そ、そんなことはない! 朔夜様はお優しい方だ! ……だがそれは買い被りだな。私は朔夜様の友人などではなく、部下だ。強くなければいかんのだ……」


「儂から見れば充分お主らは仲の良い友人同士じゃ。強い弱いなど関係なく、朔夜はお主の支えを必要としておる。……きっとお主が嫌じゃと言っても、あやつはお主を手離したりしないはずじゃ。もっと自分を信じろ」


「……本当か? ……ほ、本当に私は、朔夜様に必要とされている。そ、そう思っていても良いのだろうか……?」


 不安そうな伊勢に、伊吹は力強く頷いた。


「ああ。だからこんなバカなことはやめて……」


「う、うぅ……‼」


 さっさと部屋に戻れ。涙を浮かべる伊勢にそう言おうとした瞬間だ。


「バタバタ五月蠅いわよ‼ ここ壁が薄いんだから少しは黙りな……さ……い……」


 ダンッ! という引き戸が壁にぶつかる鈍い音。


 怒声を放った朔夜の手には淡い炎の揺らめきがある。


 灯りはしっかり伊吹たちを照らす。


 夜分遅くの騒音に、寝床に着いた朔夜は随分と苛立っているようだ。


 ……そんな彼女が見た光景とは一体どういったものだろうか?


 昼間に自分の胸を露出させた男が、今度は長年の友を半裸にして、今にも襲い掛からんと圧し掛かっている。


 しかも半泣きしている女を相手に、だ。


 もし伊吹の言った通り彼女が伊勢を大切な友人だと認識しているとしたら、この状況に対してどんな感想を抱くことだろうか。


 即座に伊吹は察した。────これは危険だ、と。


「……ま、待て! これは誤解で……」


「ざぐやさまぁあああああああああああああああああああああ‼」


 伊吹のか細い抗議の声は伊勢の泣きじゃくる声に掻き消された。


 伊勢は上にいた伊吹を押しのけて、入って来た朔夜に飛びついた。


「伊勢‼」


「ざぐやさまぁ! いぜは、いぜはずっと御傍にいてもよいのでしょうが⁉」


「突然どうしたの、伊勢? ……当然じゃない。貴方は私の友であり腹心。例え嫌だと言っても手離したりはしないわ」


 ……うむ。儂が思った通りのことを言っておるわい。


 知り合ってまだ一日も経っていないのにも関わらずこの観察眼。


 我ながら褒められたものだ。


「ざ、ざぐやざまぁあああああああああ‼」


 おんおんと泣き出す伊勢。彼女の頭を優しく撫でるその手つきとは裏腹に、その視線は険しい。


 どうやらこれで伊勢の思い過ごしは解決したらしい。


 初めて女子の相談というものをしてみたが、きっと百点満点の対応だったことだろう。


 ……さて。


「────なにが誤解だって?」


「……儂この女嫌いじゃ」


 全ての言い訳を諦める伊吹。


 誰が悪いとか論じる気はないが、この伊勢と言う少女とはとことん間が合わないと理解した。


 直後。光は破裂して衝撃が走った。




 この晩、伊吹は雨風を凌げる場と柔らかい布団が揃う幸福が訪れることはなかった。

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