第3話

 季節は春で往来には桜が並んでいる。


 活気に溢れた江戸の町ではそれぞれが商いに精を出す。


 ここは世界的にも有数の経済都市であり、となれば当然日ノ本の中心だ。


 故に人は多く、また物資も集まる。


 そんな一画。南蛮渡来の品を取り扱う商店があった。


 店頭に飾られているギヤマン(ガラス)で出来た容器は太陽光を乱反射し見る角度によってその色を変える面白さがある。


 物珍しさもあるだろう。本来ならば通りを行く人の足を止め、賑わいが生まれている。


 しかし今だけはそうではない。


 通りの人の多さに比べて一帯は不自然と言えるほど空間が出来ていた。


 とは言うのも、幕府の達しでこの手の舶来品は危険であると伝えられているからだ。


 もちろん市場に出回る品には厳重な検査がなされているが、それはそれ。いくら安全だと言われてもそう簡単に信じられないというのが庶民の感覚だろう。


 だからと言ってそれだけがこの不自然な空白を作っているかと言うと、そうでもない。


 喧嘩と火事を華と呼ぶような江戸民だ。そんな危険な品だからこそ、珍しい品だからこそ一目見ようとするのもまた庶民の感覚といえよう。


 ではなぜ通る人々がこぞって横目で流しているのか。


「────して店主。これに見覚えはあるか?」


 理由は単純。喧嘩や火事なんかよりもっと怖い輩が店の前に陣取っているからだ。


 腰には刀。纏う衣服は上等で、なにより目立つ朱房の十手は泣く子も黙る江戸の同心衆であることの証明だ。


 問いかけている女は先程まで屋敷にて多くの家臣を従えていた少女。


 現将軍の妹君、八神朔夜だ。


 なぜそのような血筋の人間が同心……つまりは警察のような仕事に携わっているのか、という話は一旦置くとしよう。


「この店は西洋の品を取り扱っていると聞いてな。どうだ?」


 後ろで束ねられている長い黒髪は、頭の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。


 顔立ちはまだ幼く、歳は二十にいかないといったところだ。しかしその堂々とした佇まいや凛とした目つきからは確かな風格というものを感じられる。


 彼女の手に握られているのはギヤマン人形。人のような姿を模したガラス製の工芸品だ。


 山羊の頭に朱色の瑠璃玉がはめ込まれた眼光は、妖しさを持ちながらも高級感と精巧さを出している。


「いやぁ、ですから知らないですって。うちで扱ってるのは確かに西洋のギヤマンですが、こんな出来の良いものは見たこともありません」


「では取り扱ってそうな店を知ってはいないか?」


「それも……。自分以上にこの手のものを仕入れてる同業者ってのは、多分江戸にはいないと思いますぜ」


 否定。店主は申し訳なさそうに答えた。


 嘘をついている様子は確かにない。朔夜はそう判断する。


「そうか。邪魔をしたな」


「いえ、こちらこそお力になれず……」


 舶来品を扱うこの手の業者において、幕府の役人というのはなにより下手にでなければならない相手の一人。


 ただでさえ今の御時世だ。気分を害して輸入を制限などされては堪らない。


 そんなことを思いながら送り出そうとしたとき、ふとあることを思い出す。


「そういや……」


「なにか知っているのか?」


 いえ……と前振りをしながら言う。


「最近ここらであまり見たことのない南蛮人が出入りしてましてね。そいつがなにを扱ってるかっていうのはわかりませんが、外国の商品売ってるって聞きます」


「それはいったい……」


「──ちょっと失礼」


 どのような、と問いただそうとしたとき背後から腕が伸びて来た。それは朔夜の横を通り過ぎていき、なにやら紙のようなものを店主に突きつける。


「その南蛮人っていうのはこういう奴か?」


「っ⁉ 何者だ!」


 気配はなかった。知らぬ間に背後にその男はいた。


 私だけではない。一緒にいた者たちもその存在を悟ることは出来ていなかったのだ。


「え、ええ。確かにこんな感じの男で……。にしても随分そっくりな絵だな、こりゃあ」


「絵じゃなくて……なんと言ったかのう。ふぉ、ふぉとぐ……」


「『photograph』。なんど言ったらわかるのよ」


「毎度毎度、異国の言葉は舌がつりそうじゃなのう……。にしても助かったわ。ありがとのう。ようやく当たりじゃわい」


 朗らかに、何事もないように男はそう言って一歩引く。


 すまんな、と。それだけを言ってこの場から立ち去ろうとする男に……


「待て」


 供回りの一人。帯びた刀を抜いた少女が男を呼び止めた。


「朔夜様の背後を取り、お話を遮るとは無礼にも程があろう」


 問われた男は歩みを止め、何度か目をパチクリさせる。


 驚き、というか困惑的な表情のあと、言葉を選びながら軽く頭を下げた。


「ああ……その……偉い人じゃったのか。それは悪かったのう」


「朔夜様を知らぬとは無礼にも程があろう!」


「お主のなかには随分無礼の程があるんじゃなあ……」


 困惑しながら朔夜様と呼ばれた少女を見る。彼女は特に怒った様子はなく、


「まあ落ち着け、伊勢。背後を取られたのは私の不覚。私が知られていないのは私の不徳だ」


「しかし……」


「姉上と違い精進が足りないということだ。──家臣が失礼をしたな。私の名は八神朔夜だ」


「儂は大江伊吹。こっちは……絵葉とでも呼んでくれ」


「ちょっと、人の名前教えるの諦めるんじゃないわよ! ……まあ、この国の人間からしたら言い難いらしいしそれで良いけど」


「ええんかい……」


「伊吹と絵葉か。よし、覚えたぞ」


「こちらも悪かったのう。して、失礼な質問かもしれんがお主は有名なのか?」


 国家を治める一族の顔を知らない。


 それは酷く失礼な態度ではあるが、先程の言葉通り。昨夜はそれを自らの未熟として、何も思う所なくいや、と手を振った。


「私などまだまだだ。しかし八神家という名ぐらいは知っているだろう」


「いや、知らん」


 即答。伊吹のその態度に少しばかり血管が浮かび上がるもなんとか表情を保つ朔夜。


「……ほう。随分田舎から来たようだな。しかし現将軍の一喜姉様のことは……」


「いやぁ、恥ずかしい話だが……知らん」


 言って、しばらく返答はなかった。朔夜は顔を伏せて肩を震わしながら……


「き……貴様ァ‼ 一喜姉様を知らないとはなんたる無礼か‼」


「い、朔夜様! 落ち着いてください! 確かに無礼にも程がありますが、しかし落ち着いてくださいませ!」


「伊吹……」


 はあ、と絵葉は溜め息を一つ。あまりの迂闊さに呆れてものが言えない。


 彼女は怒る朔夜の方を向き直して、


「ごめんなさいね。こいつは貴方の言う通りどえらい田舎から来たもんで」


 ふぅー、ふぅーと荒い息をする主人を後ろから羽交い絞めにして止める伊勢と呼ばれた少女の様子から、その気苦労が知れる。


「田舎とは失礼な。確かに住んでいたのは山の中じゃが、意外と京に近いんだぞ。下りればすぐじゃ」


 京? その単語に伊勢は疑問を思う。


 当然だ。


 京の近くという場所は今現在この日本において存在しないのだから。


「冗談にも程があろう。京とはつまり西方。その近くに住んでいたとは、それでは西方の山に住んでいたという意味になってしまうではないか。百歩譲って京出身ならあり得なくもないが、その上降魔が跋扈する山に住んでいたなどとは笑い話にもならんぞ」


 至極当然の突っ込みだが、男は笑い話も嘘もしているつもりは毛頭ない。


「生まれも育ちも西方の山育ちじゃ。むしろ京の方は結界張られてて行ったことすらないぞ」


 それでも伊勢は信じようともしない。男の話はあまりにも現実離れしすぎているからだ。


「馬鹿馬鹿しい。冗談にしてもこれ以上法螺を吹いては牢屋に入ってもらうことになるぞ。仮に西方の人間だったとして、どうやってこちらに来られようと言うのだ。大障壁を登って来たとで言うつもりか? 嘘をつくならもう少し設定を練って「そうじゃぞ」……は?」


 要領を得ない伊勢に、だから、と前置きをして再度口を開く。


「よじ登って来たぞ、あの壁」


「なっ……⁉」


 男は遠く、江戸からでも薄っすら見える程に巨大な壁を指してそう言った。


「……それより、一つこっちからも聞いてよいかのう?」


 ようやく男が何を言っているのかを理解し始めた周囲の者ども。あり得ない、と口々に冗談だと笑う者と、少しばかり考え込む者などに二分された空気の中で、されど気にした素振りは見せない伊吹。彼は顎に手を当てて悩んだ様子を見せた。


「……将軍様を『姉上』などと呼ぶとはつまり、この女子……」


「あ、ああ。その通りだ。こちらは将軍一喜様の妹君、朔夜様」


 羽交い絞めしていた少女がこちらの疑問を理解したのか、そう教える。


 そちらの方を向いたとき、伊吹はあることに気付く。


「……お主、それ気にならんのか?」


「? 一体なんのことだ……?」


 それじゃ、と指をさす伊吹。だがそれでも朔夜はなにを指しているのか分からず、首を捻る。


 言うより見せるが早い。そう判断した伊吹は抑えられた朔夜の胸元に向かって軽い、しかし速い拳の動きを行った。


 動作は一瞬で当の本人である朔夜が反応出来たのは終わった後。


 軽い拳打のような動作ではあったが、別に殴られたような感覚はない。


 ふわりと優しく服の前合わせが揺れた程度のものでしかなかった。だが伊吹はきっちりと目的を果たしたようで、じっくりと己の手を睨んでいる。


「これは…………蟲じゃな。瘴気に侵されておる」


 いつの間にか伊吹の指には一匹の小さな蟲が摘ままれていた。


 しかもただの蟲ではなく、瘴気に侵された蟲。


 刺されたところで降魔になるようなものではないと思うが、しかし警戒するに越したことはないだろう。そう思いながら伊吹は蟲を潰した。


「こっちではあまり見んし、多分儂に紛れておったんじゃろうな。すまんかった……な……」


 伊吹は謝罪の最中、目前の光景に思わず思考が停止する。それに未だ気付かない朔夜は伊吹の速さと、その行為の意味に興味を持って一歩前へ出た。


「い、いったい今なにをしたのだお前「さ、朔夜様!」伊勢! お前も今の動きは見たか⁉」


 伊吹の素早い動きに只者ではないことを察した朔夜。


 それを部下である伊勢に伝えようとするが、何やら自分と彼女の間に温度差があるのを感じる。


「? 一体何を慌てて……」


 突然顔を赤くする男。慌てる同心衆。必死に目線や指の動きで朔夜に何かを伝えようとしている彼らによると……


 ……下?


 なにか落としてしまったのだろうか。そう捉え、視線を落とす。


 そこでやっと朔夜は自分の姿を認識することが出来た。


「~~~~っっ⁉ なっ……⁉」


 声にならない声とはこういうものを言うのだろうか。


 朔夜の喉奥から引きつった悲鳴が漏れださんとしている。


 場にいる者全てが状況に着いていけない中、唯一緊張感のない絵葉は他人事のように思わず感嘆を上げた。


「────あら、意外に立派なものね」


 拳の起こした風の動きだろうか。それとも掠っていたのだろうか。


 兎にも角にも伊吹のその行動によって、朔夜が巻きつけていたさらしが外れてしまった。


 それは朔夜の胸元を押さえつけていたもので、そうなれば当然……そうなる。


「ま、待て! 誤解じゃ! 儂はこいつを捕ろうとしただけで……‼」


 数秒先に見える未来。それをなんとか阻止せんと証拠である蟲を彼女の前に差し出そうとする……が。


(潰れておるわ‼)


 もうとっくに潰した後だった。


「んなぁあああああ‼‼‼」


 予想した通り。真昼間の天下の往来にて少女の悲鳴が轟く。

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