微風、やんで

久世 空気

微風、やんで

 また座卓の上で寝てしまったようだ。今何時だろう。スマホを見たが充電が切れたようで、うんともすんとも言わない。充電器を探したが、コードが食いちぎられていた。またネズミだ。舌打ちしてゴミ箱に放り込む。ゴミ箱ももういっぱいだ。次はいつゴミの収集日だ? 今日は何日だ? 締切は? 論文の締切は大丈夫か? 寝る前に確認したときはあと1週間あった。大丈夫。もう終わりが見えてきている。俺は再びパソコンのキーボードに手を置いた。寝起きの頭に自ら檄を飛ばして作業の続きを始めた。それにしても暑い。クーラーは・・・・・・そうだ、結構前に壊れていたんだ。

 クーラーは中から壊れていた。小さな糞のようなものが落ちてきたから、たぶん大きな虫かネズミだろう。真夏でかなりきついが、俺一人なら扇風機でなんとかなるだろうと、窓も全開に開けてしのぐことにした。扇風機は・・・・・・そう、アパートのゴミ捨て場から拾ってきたんだ。壊れているのかと思ったけど、動いたから使った。

「え~、汚いじゃん。扇風機ぐらい買えば? っていうかクーラー買い換えなよ」

 そう言ったのは彼女のアユだ。

「時間ないんだよ」

 俺はパソコンから目を離さずに言った。

「なんでそんなに時間ないのよ。ほら、おにぎり作ったから食べなよ」

 文句を言いながらもアユは俺の面倒を見てくれた。手を伸ばすと大きめの三角の握り飯をつかめた。中はなんだろうと思いながらほとんど飲み込むように食べる。

「はい、麦茶」

 そういう行動を見透かしたようにアユはなみなみと麦茶を注いだグラスを置いた。俺はそれを一気に飲み干す。

「俺はこれに掛けてるんだよ」

「教授に気に入られて院の推薦もらうためでしょ? 何回も聞いたよ。でも・・・・・・」

「余暇も必要、だろ? 何回も聞いた」

 ちょっと間があり、アユが横でふくれっ面しているのが気配で分かった。俺はタイピングしながらも少し吹き出す。

「これ終わったら、ちゃんとかまってやるから、大人しく待ってろ」

「・・・・・・うん」

 その後、アユは泊まったんだか、帰ったんだか覚えてないけど、いつの間にか居なくなっていた。

 論文は遅々として進まない。もうすぐなのに。焦りで喉が渇く。暑い。そうだ扇風機。止まっているのか? 振り返ると散らかった部屋の端に、ひっくり返っていた。近寄って立てる。拾ってきたときよりボロくなっていたが扇風機だ。しかしスイッチを押しても動かない。コンセントをたどっていくと、途中で中の線がむき出しになってちぎれていた。

「ネズミじゃない?」

 そうだ、これを最初に発見したのはアユだった。俺は聞こえていたが黙って指を動かしていた。

「ねぇ。扇風機が壊れてるんだって。これ、ほら、コードのところが食いちぎられ て・・・・・・」

「うるせぇなぁ!!」

 アユが黙る。

「それどころじゃないって、わかんねぇかなぁ!」

 座卓を拳で殴ると「ごめん」と小さな声が聞こえた。

「でも、暑いじゃん」

「じゃあうちに来なければ良いだろ! 余計な人が居ると暑くなるんだよ! 馬鹿だからわかんねぇかな!」

 怒鳴りだしたら止まらなくなった。後ろでアユが息をのむのが分かった。

「そういうことじゃなくて・・・・・・てか、そんな言い方ないじゃん」

 泣いている気はしたが、吐いてしまった言葉は取り消せない。振り返らずにいるとドアが閉まる音がした。・・・・・・あれから何日経ったんだろう。アユに謝らないと。イライラしていたからと言って、酷いことを言ってしまった。そもそもアユには関係のないことだったのに。親の希望で院まで行くのも、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのも。それでも独りにならないように、まめに家に来てくれていたのに。俺はアユに連絡を取ろうとしてスマホの充電が切れていることを思い出した。仕方がない、次にゼミに顔を出すときに大学でアユを探そう。直接謝ろう。

 再び論文の作業に移る。資料を一冊手に取ったら何故か反対側にあった本が雪崩を起こした。ドミノのようにバランスを崩したのかと思ったが、ガサガサと音が続く。鼠か? そういえばなんとなく臭い。俺が風呂に入っていないからかと思ったけど。崩れた本を立て直すとしたから見覚えのないモバイル扇風機が出てきた。ピンク色のプラスチックで出来たちゃちなものだ。アユが忘れていったんだろう。スイッチをオンにすると問題なく動き出した。俺はその風を首元にあてながらパソコンに向かった。

 緩い風を感じながらふと、親から電話があったことを思いだした。アユがいなくなる前か後か。記憶が曖昧だ。論文を書きながら適当に対応していた。最初は勉強はどうだ、進学できそうか、そんな話をした。生返事をしていたせいか、電話口で親が苛つき始めた。本当は論文の進捗が良くないのをごまかしているのではないかと、かなりきつい言い方で責められ、疑われた。その時は空腹で苛立っていたと思う。俺はスマホを文字通り放り出した。確か壁にぶつかって落ちたはずだ。スマホを確認すると画面に大きなひびが入っている。俺はもう一度それを壁にぶつけた。壁は思ったより大きな音を出し、スマホは静かに畳の上に落ちた。・・・・・・俺はなんでこんなことをしたんだろう? まあ、動かないスマホなんてゴミみたいなものだから良いか。無駄な動きをしたせいでまた暑くなってきた。俺はシャツで汗を拭いて資料を開いた。資料はあちこち破れていた。高価な本だったのに・・・・・・。これはなんだろう? 歯形だろうか? 紙が扇形になくなっている。これも、鼠か? いや、いい。これがなくても論文は書ける。それなのになんで、さっきから1行も進まないんだろう。書いて、書いたところで・・・・・・いや、余計な考える必要はない。これが終われば何でも良い。そんなことよりも暑い。モバイル扇風機はもっと風を強くすることは出来ないのだろうか? 手の中の機械を見て俺は愕然とした。扇風機はいつの間にか止まっていた。壊れていたのだ。羽の部分がない。かみ砕かれたように、畳にピンク色の破片が散らばっていて、点々と赤い斑点があった。俺は口元に手をやる。ぬるりとした感触に指を見ると、赤い血が付いていた。いや、口を怪我したくらい、どうってことない。いや、そんなことより、暑いのをどうにかしないと。いや、書き上げてしまえばどうとでも。

 いや、いや、いや、いや、いや

 そうつぶやきながら俺がキーボードを拳で叩いていたら、後ろでまた、ごそごそと音がした。振り返る。細長い尻尾が、ちらりと分厚い本の間をすり抜けていった。


 アユはスーパーでいっぱいに買い物して丸く膨れたエコバッグを両手で持ち、彼氏の元に向かっていた。ふぅふぅ言いながら、頭の中でなんて慰めようと試行錯誤していた。彼氏はあんなに頑張っていた論文の締切に間に合わなかったのだ。それどころか大学にも現れない。頑固なくらい真面目だから、顔を出しづらいのかもしれない、ちょっと見てきてくれないかと教授からお願いされたのだ。それだけ期待されていたと知ったら喜ぶだろうか。彼のことだからまた親からの言葉と同じようにプレッシャーに感じてしまうかも。「大丈夫、ちょっとくらい失敗しても、皆が、君が頑張っていること知ってるから」口に出して言ってみたけど、なんかありきたりすぎて、臭い気もする。まあいいや、とアユはバッグを持ち直した。とりあえず「おつかれさま」それから「来なくてごめんね」その後は一緒にご飯食べて・・・・・・。アパートの彼の部屋の階まで上がると、廊下を一匹の鼠が走り去った。へぇ、こんな住宅街にも鼠って居るんだ、繁華街とかの路地裏とかにいると思ってた。アユは鼠が去って行った方を見ながら彼の部屋のインターホンを押した。しかしカチカチというだけで手応えがない。部屋の中で呼び鈴が鳴っている気配もない。ドアノブに手を掛けるとこちらも手応えもなく開いた。電気が点いていない。真っ暗な部屋の中で何かが動いている。彼の名前を呼ぶとそれが動き、ガサガサと紙がすれる音がした。その影は何も言わない。それにしてもなんの匂いだろう? アユが部屋に入ろうとすると、その影はごそごそと畳を這うように奥に向かっていった。その一瞬、部屋のカーテンが揺れ、一筋光が部屋を照らす。

 ――え?

 薄明かりの部屋の中央にいた者は到底彼には見えなかった。そんな見間違いあるだろうか、まるで、彼が鼠のような・・・・・・。アユは部屋に入る。彼のパソコンが壊れていた。集めていた資料もハムスターの巣のように紙くずになって集まっていた。彼は・・・・・・どこだろう? 部屋の奥に消えたはずの影は消えていた。

 それ以来、アユは彼に会っていない。でもたまに、自分の家の天井からごそごそ音がしたり、台所に置いてある食べ物に歯形が付いていることがある。家族は鼠だろうと言うけど、もしかしたら・・・・・・。

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