第4曲
あれから、あっという間にあの店は閉店した。結局、七海とは会うことが出来なかった。
坂野井は本社の営業から、ピアノ教室の担当に回ったと、一ヶ月前に電話があった。
おれは、隣町の地元に帰って、実家で個人のピアノ教室を始めた。最初は生徒なんて集まらなかった。得体の知れない男のピアノ教室に我が子を預ける親はそうそういない。
しかし、少しずつ、一人、また一人と生徒が増え、昨年は初めて主催の発表会を開催することができた。と、言っても、地元の小さい教会での発表会だったけど。
音楽の世界で挫折を味わって、ずっと嫌悪していたはずなのに、おれはピアノというものから離れることができなかったのだ。
今では、子供たちが喜ぶ顔を見るのが一番の幸せだ。あの子たちに、おれと同じ思いはさせたくない。音楽は楽しいものだと知って欲しいのだ。
『あ、平野さん? 元気です? あの、ちょっと困っていて。おれを助けると思って、協力してもらえませんか?』
一ヶ月前、七年ぶりに聞いた
今日はあの店が閉店した日だ。
七年前、あの店が閉じたあの日。
春の匂いはまだまだ遠い。もう一週間もすると四月になるというのに。
ハンドルを握りながら、久しぶりにあの町の景色を眺めると、そう変わっていないような気がした。車で15分程度なのに、なぜかあれ以来、この町には足が向かなかったのだ。
後ろめたいことなんて、なに一つないくせに。
なぜか、この町に来るのが憚られたのだった。
以前、働いていた店の脇に空いている駐車場に車を入れてから外に出る。
店が閉じてから、この店舗はずっと空いていたらしい。閑散としているであろう店の前に足を向けた。
一度は消された看板は、日に焼けたように薄く煤けていた。
『大町ピアノセンター』
それを見上げて、坂野井がいて、おれがいて、そして––––あいつがいて……。
そこまで想いを馳せてから、ふと人の気配に顔を上げた。
驚いた。
おれと同じように、彼は看板を見上げていた。
いつのまにか、おれとは少し離れた場所にいた男。
「坂野井?」
彼との待ち合わせまでまだ少し早いはずだが……。そう思いながら、男に声をかけて、はったとした。
違う。坂野井はこんなに若くない。
それに、おれはその横顔を知っている––––。
「先生––––?」
「
まだ肌寒い時期。紫色に黒のチェックのマフラーをした彼は七海だった。
手足も首もスラリと長くなっていて、あの当時の幼児体型は見る影もない。声色も声変わりをしていて、随分と低くなっている。
だけど、彼の瞳はあの頃と変わっていない。どこか夢みがちなキラキラとした輝きを持っていた。
おれたちは、言葉を失っていた。どちらかがこの沈黙を打ち破らないと……、大人のおれが。そう思った瞬間、彼が先に声を発した。
「ピアノ!」
「え?」
「ありがとうございました」
ああ。あれ。届いた? あの時、お前の母親に押し付けるように電話をした。
七海がピアノのレッスンを始めるにあたって、念のためとお前の連絡先を聞いておいてよかったのだ。
『なんです––––突然に。不躾ではありませんかっ!』
彼女はそう怒っていた。多分、なにかの詐欺だと思ったに違いない。だって––––。
「おれの欲しかったグランドピアノ。突然、運ばれてきて……笑っちゃった。本当。先生のやりそうなことだ」
彼はそう言って笑った。
そう。おれは、退職金代わり……いや、足りない分は足した。あのピアノを七海の家に送りつけたのだ。
あんなのが突然、送られてきたらさすがに困るだろう。
七海の家は、事前に下調べをして、かなり大きな家であると確認した。小さいアパートだったら、グランドピアノを置くスペースがないからだ。
それにしても、当時のおれはやる事がイカれていた。あんなこと。普通しない。
『お宅の息子さん、ピアノの才能があると思います。ピアノにかまけて勉強しないような子でもないと思うし、なんとかピアノをやらせてあげてくれませんか?』
おれの脳裏には、七海の母親との会話が再生されていた。
「今日は、お店がなくなった日でしょう? 毎年来ていたんだ。あの日、この店から出ていくところを母に見つかって、すごく怒られた。もういっちゃダメって。でも、ほとぼりが冷めたら、また通うんだって思っていたのに。やっとの思いでここに来たら、店はなくなっていた」
「ごめん。お前には、ちゃんと挨拶したかったんだ」
「先生のせいじゃない。おれが悪いんだ。母に話すべきだった」
「十歳やそこいらのお前にはハードルが高すぎるだろ?」
「でも、母はわかってくれた」
彼はニコッと笑顔を見せた。あの頃のあどけないままの笑顔だった。
「先生、おれ、来週から東京に行くよ。音楽大学に合格したんだ」
そうか。
「グランドピアノを送るって母に電話寄越したでしょう? 最初は詐欺だ、悪戯だって怒っていたけど、本当にピアノが来て腰抜かしていたよ。おかしいね。それから大変だったんだから。先生に返さなくちゃとか、お礼しなくちゃとか言って、先生の所在を探してた。お店はなくなったし、会社に電話しても退職したって言われてお手上げだよね。
––––そんなに、ピアノやりたかったの? って。先生探しがひと段落したら、そう聞かれたからうんって答えた。そしたら、黙ってピアノ教室に通わせてくれたんだ」
そうか。それはよかったんだ。おれは取っ掛かりしか出来なかったけど。
良かったんだ。
「平野さん、お待たせしました! って、え!? 七海?」
業務用の白いワゴン車にのった坂野井がやってくる。そして、おれたちは三人で再会したのだ。
「平野さん、講師の仕事引き受けてくれてありがとうございました」
「ここ、音楽教室になるんですか?」
「そうだよ。七海。ここはピアノ教室になるんだ」
おれたちが戻ってきたのに、七海は旅立ってしまうのか。そう思うと、落胆の気持ちが隠せないが、彼は笑顔でおれたちを見た。
「おれ、必ず帰ってきます。そしたら、おれもここで働きたい」
坂野井は、くしゃくしゃの笑顔で笑う。
「いいね! じゃあ、それまでは平野さんに頑張ってもらいましょうか」
「任せておけよ。おれ、子供には人気あるんだぜ」
「オレンジジュースも用意しましょうか?」
「お前さ。子供心をわかっていないねー」
「わかりますよ。あれから結婚したんです。子供二人いますもん!」
古びたシャッターを押し上げて、坂野井は笑った。
「先生は?」
七海の質問におれは答える。
「してるわけないじゃん。こんなおっさん」
「そう。……よかった」
「え?」
「なんでもないよ!」
なんの話だ。七海に問い詰めようとしたとき、坂野井が声を上げた。
「オレンジジュースですよ! 飲んでから打ち合わせしましょうか。七海も時間あるなら付き合って」
ふと隣の彼を見ると、七海はおれを見ていた。いや、それはおれだけを見ていたといった方が正しい。なんだか胸がドキドキするのはどうしてだろうか––––。
一度止まってしまった三人の時間が、またこうして始まるのか。
この場所から。
それぞれの人生がまた、交わって––––。
ー終ー
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