第2曲



 彼の名前は吾妻あづま七海ななみ。近所の大町附属小学校の五年生だ。附属小学校って言ったら、お受験のあるお金持ちの子供が通う学校だ。

 七海の父親は、銀行員だそうだ。そして、彼の両親たちは、彼に勉強しかさせたくないとのことだった。


 しかし、七海はずっと昔からピアノを弾いてみたかったと話した。それが、たまたま、あの日。店の前を通った時におれの演奏が聞こえて、誘われるように店内に入ったのだそうだ。

 頭のいい奴は十歳くらいの時から、難しい言葉を使い、子供っぽくなくて可愛くない。 


 七海も同じだ。

 いつも表情がなくて、あっさりとしている。自宅で練習などできるわけもないくせに、こいつは覚えが早い。その場で難なく課題をクリアするのだ。落ちこぼれのおれなんかとは違うのかもしれない。


 数ヶ月もたつと「七海には才能があるのかもしれない」と思い始めていた。


 おれは珍しく気分が昂っていた。

 

 いつも自分が下だった。大学の試験の時も、演奏会の出演者に選ばれたことなんてなかった。いつもその他大勢だ。

 そんなおれが『先生』と呼ばれているのだ。なんだ? この感覚は。生まれて初めて、尊敬を込めたような呼ばれ方をしているのだ。これが、興奮しないわけにはいかない原因だ。


『どうせ、ダメなやつ』そんな目で見られ続けて、いてもたってもいられなくて過ごした四年間。


 なんのために音楽大学に入ったのだろうか? 


 演奏家に進まない者は、講師や教師に進む。おれはそんなことも断念して、しがない楽器メーカーに就職。そして、今ではこうして、月に一人も客が来ないピアノ販売店の店員をしているというわけだ。


 そんなおれが先生だぞ?


「平野さん、いいんですか? 小学生なんて連れ込んじゃって」


 このピアノセンターに勤務している唯一の同僚、坂野井さかのいがコーヒーを飲みながらおれに声をかけてくる。


 彼は高校卒業後、なにも考えずに楽器販売店に就職した男だが、あっけらかんとしていて、退屈なこの仕事での話し相手としては満足いく同僚だ。同僚ではないか。おれが店長だから、部下になるということだろうか。二人しかいない店内だ。上司も部下もあったものではないのだが。


「連れ込んでいるわけじゃねーよ。七海が勝手に通ってくるんだろう?」


「でも、それを許しているのは平野さんじゃないですか」


「うるさいな」


「そんなこと言って、七海くんが来るのを楽しみにしているクセに。……そろそろきますかね」


 坂野井の声と共に、カラカランと低いくぐもった鐘の音が鳴った。 


「こんにちは〜」


「七海。おっす」


 彼が現れてから三ヶ月が経つ。彼は少し気恥ずかしそうに視線を伏せながら顔を出した。


「今日もよろしくお願いします」


「まずはジュースでも飲んだら?」


 坂野井は事務所の冷蔵庫からオレンジジュースを出してくる。七海が通ってくるようになってから、彼が買い足してくれるのだが、このご時世に『子供はオレンジジュース』という方程式も古い。

 もっと違う物にするように言いつけておかないと。


「大丈夫です。だって、お金も大して払っていないし」


「んなこと気にすんなって。どれ、手洗ってこい。一昨日の続きだ」


「はい」


 ランドセルと麦わら帽子を置いて、彼は事務室に入っていた。



––––––––––––––––––––––––––––––––––



 七海と坂野井との時間は、おれにとったらキラキラと眩しくて輝いていたのかもしれない。七海の上達ぶりに、おれたち二人は保護者のように喜んだ。

 坂野井は馬鹿の一つ覚えみたいに、相変わらずオレンジジュースばかり買ってくる。


 おれは、ピアノと向き合うのが苦にならなくなっていた。


「次はなにを弾かせようか……」


 そんなことを考えていると、閑古鳥が鳴いている店内での時間もなかなかいいものだと思った。


 今日の課題を選んでから店内に戻ると、坂野井と七海は一台のグランドピアノに座っていた。

 下手くそな『猫ふんじゃった』だ。坂野井は、音楽なんてまるでわからない男だった。


「下手くそだな。楽器が泣くぞ」


「そんな文句言うなら、平野さんが弾いてくださいよ」


「おれも聞きたい。先生のブラームス」


「お前は本当にブラームスが好きなんだな」


 七海は真面目な顔で頷いた。


「好き。そして、このピアノが好き」


 せがまれて、望まれて演奏することが、こんなにも幸せなことだったなんて。

 三人で過ごした日々は宝物みたいだったんだ。



––––––––––––––––––––––––––––––––––


 


 あいつは、おれの人生を救ってくれた。どん底ばかりを這って生きてきたおれを救ってくれたんだ。

 最初は子供なんて相手にする必要がないとバカにしていたはずだったのに、いつのまにか夢中になっていたのはおれの方だったんだ。

 「先生」なんて呼ばれていい気になって……。いつもどん底人生のおれに、そんないい時間がいつまでも続くわけもなかった。




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