ユメみたものは。

雪うさこ

第1曲

 



 正直、おれの人生は全てが中途半端だったんだ。

 もちろん、誰かにそう指摘されたわけでもないのだが、自分が一番わかっていることでもあるんだ。

 目の前にある古びた看板を見上げてため息を吐いた。


『大町ピアノセンター』


 日光焼けして、薄くなっているその文字を眺めていると懐かしい気持ちになった。

 ああ、ここで。そう。おれは退屈な毎日を送り、それから人生の転機を迎えたんだ。



––––––––––––––––––––––––––––––––––




 頬杖を着きながら、目の前に置かれているピアノたちを眺める。

 今日も、客なんて来るわけがない。閑散としている店内を見渡してから、仕方なしに立ち上がった。

 朝からなにをしている? 

 誰も来やしない。昨日もそうだ。

 一昨日は? 

 そうだ。一昨日は、高齢になってからピアノを習い始めたから、ほどほどのアップライトピアノを頂戴––––と老女がやってきた。あれはラッキーだった。一台も売れない月があるものだが、一台売れたとなれば御の字だったからだ。


 あのラッキーさを心に思い浮かべて、ふと口元が緩んでいることに気が付く。

 社員は二人きりという小さいピアノ販売店に、今日は一人でいるとはいえ、ニヤけている自分が恥ずかしくなった。

 その恥ずかしさを紛らわそうと、国内産ブランドのグランドピアノを布で拭き上げた。それから、椅子に腰を下ろして、鍵盤に両手を添える。

 たまにはこうして、楽器も鳴らしてやらないと……。


 そんな理由に託けて、おれはブラームスの2つのラプソディ作品79の第1曲を奏でた。


『お前、やる気あるのか? プロになんてなれると思うなよ』


『そんなレベルでよくこの学校に入ったな』


 ああ、またこれ。ピアノを弾くことが好きだったはずなのに、今は嫌い。なのに、やめられない。

 途中で、鍵盤を叩きつけて音を止めた。


「やっぱり、おれには……」


 カラカラン……。

 耳をついたのは、来客を知らせる鐘の音だった。


「いらっしゃいま……せ……」


 言葉に詰まった。なにせ、そこにいたのは小学生くらいの子供だったからだ。


「あ、あの。こんにちは」


 麦わら帽子に、白いワイシャツ。濃紺の半ズボンは、近所の小学校の制服だと知っている。


「どうしたの?」


 子供? 客ではないだろう? 小学生がピアノを買いになんて来るもんか……。


 客ではないと判断すると、愛想笑いをする必要がない。おれは迷惑そうにその子供に視線をくれた。


––––ヒヤカシなら出て行けよ。


 おれは子供が苦手だった。

 正直、どう接したらいいのかわからなかったからだ。

 しかし、その子供は、おれの拒絶的な視線など物ともせずに、一目散におれのところに歩み寄ってきたのだ。


「あの。今の曲」


「ブラームス?」


「もう一回、聞きたいんです」


「はあ?」


 小学生のただの興味。だけど、人から演奏をせがまれることなんて、何年ぶり? こんな小さい観客だが、おれの演奏を聞いてくれるというのか。


「お願いします」


 頭を下げた子供に気をよくしたのか。もう一度、その曲を弾いた。子供は、そばの椅子に座り込んで口を開けておれの演奏に聞き入っていた。


 初めてなのだろうか。こんなおれの演奏のどこが……。


 重厚な響きを残し、曲が止まると同時に、子供はおれに飛びついてきた。


「せ、先生! おれにピアノを教えてくださいっ!」


「はあ? おれは教えるつもりなんて……」


「お願い、お願いします。大したお金は払えません。でも、明日必ずお小遣い持ってくるから。お願いします」


 彼は麦わら帽子を取って、何度も頭を下げた。

 どうせ子供の冗談だろう。そう理解し、「いいよ」と軽く返答をする。

 明日、来るわけない。なんとも現実味がない話しだからだ。

 だが、彼は嬉しそうに笑顔を見せると頭を下げて帰っていた。



––––––––––––––––––––––––––––––––––




 翌日。彼は本当にやってきた。ゴム製のクマの貯金箱を抱えてやってきたのだ。


「お母さんには内緒。勉強しなさいって言われていて。ずっとピアノを習いたかったんです。あの、これしかないけど、だめでしょうか?」


 目の前の貯金箱には、小銭で1520円しか入っていなかった。

 最初は子供の戯言かと思っていたのに、彼は本当にやってきた。そして、必死におれを見つめてくるのだ。

 その瞳の色は、遥か昔に音楽を心から好きで仕方がなかった自分と重なった。

 まさか、自分がこんな子供に落とされるなんて思ってもみなかった。


「……いいよ。その代わり、ここはピアノを売る店だ。客がいる時はダメだ」


 そんな事は、ほとんどないがたまには客が来るからな。


「それから、親に内緒だってことは、学校帰りに寄るか?」


「はい」


「あんまり遅くなると親御さんたちが心配する。おれはお前のスケジュールがよくわからない。親御さんたちに迷惑をかけないような方法をとるんだ」


「それなら、火曜日と、木曜日は塾がないんです。だから、その時に寄ってもいいですか」


「一回、三十分ずつだ」


「そのくらいなら、学校で居残りしたと言い訳がたちます」


 なんだか大人びた会話をする。


「お前、何年生?」


「五年」


 ピアノを始めるのは遅い年頃だけど、それでもなお、このやる気があるなら、そこそこ弾けるようになるかもしれないな。

 それに、このときのおれは、退屈な生活が少し騒がしくなることにワクワクしていたのだった。







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