第一章 私と幽霊と宰相閣下⑥
***
五日目の朝が来た。
今日も、耳慣れたカラコロという
当初は馬車での移動もそれなりに興味深かったけれど、今はまったく興味をひかれない。
いろいろと考えをまとめられたのは良かったけれど、そろそろ潮時だと思う。
(…………いい加減この状態に
私は、書類に没頭している目の前の男性に視線を向ける。
出会った当初から、彼の印象はあまり良くなかった。
整った顔立ちが眼鏡のせいで冷たい印象を与えるのと、口を開けば微妙に嫌みを含んだ発言ばかりしているせいだ。
(あと、自分の用事がないと
毎朝、顔を合わせたら「おはようございます」と挨拶するのに、返ってくるのは「ああ」といううなづきだけだ。
これが主人と使用人だったらありなのかもしれないけれど、私は派遣された人材であって、彼の部下でも何でもない。
(これって、私を対等な者だと思っていないのでは?)
選帝侯家に仕えている人間だというのなら、本来彼は私に
私を
別にご機嫌を取り結べとまでは言わないけれど、扱いには相応の敬意があってしかるべきだと思う。
(…………でも、それも彼が選帝侯閣下本人なのではないかと疑う理由なんですよね)
ただし、選帝侯ご本人であっても、私に対してこの扱いをするのはかなり失礼だ。
(今のところ、帝国と皇国は良好な関係にあるけれど、それがいつどうなるかわからないことなんて充分承知しているでしょうに…………)
現皇帝陛下が即位するまで、帝国と皇国が犬猿の仲だったのは前述のとおりだ。
何が言いたいのかと言えば、現在の友好関係なんて、私が今回の人材派遣契約を破棄して舞い戻ったりすれば、それだけで悪化するようなものだということだ。
引き受けたからには雇用主が満足するように努めるけれど、できることとできないことがある。
今、この時点で自分に有利な形で破棄して、皇国に逃げ帰ることだってできないわけじゃない――――ビビ
(まあ、それはいざという時の切り札にするので、そう簡単にチラつかせたりはしないんだけど…………)
切り札というのは適切な時に出してこそ、最大の成果が得られる。
私は気付かれないように小さく息を
状況を単純に整理するとすれば……両国間にはもろもろの事情がある。
その上で、れっきとした選帝侯家――――それも現帝国宰相家の使用人が、皇国から派遣された……自分で言うのも何だけど……将来をとっても
(あるいは、わざとそういう態度で私の出方をうかがっているという可能性もあるわけなんだけど……)
でも、そうする理由が思いつかないし、それよりも彼が選帝侯閣下本人だと考える方が いろいろと納得できる。
(何しろ、ヴォリュート帝国の選帝侯にして宰相閣下ですもんね)
フィアリス選帝侯家の有する領土だけでも、皇国の三倍くらいの広さがある。帝国全体では大陸最大の
私は、ゴトゴトと馬車に揺られながら、小さな窓の外に目を向けた。
窓の外を流れていく景色は、いつの間にか緑溢れる
(…………もう、帝都に入ったのかな?)
この馬車を見て頭を下げている人達がちらほらといる。
おそらく、選帝侯家の
(民に、
誰に強制されたのでもなく自発的に敬意を示す人達がいるというのはそういうことだ。
私には無駄としか思えない馬車での移動だったけれど、もしかしたらこの無駄な移動にも何かの意味があるのかもしれない。
「…………お
この五日間というもの、車内では常に書類に目を向けていた男が、ふと気付いたように顔をあげた。
「……はい」
彼から声をかけられたのが初めてだったので、とても驚いた。
それから、正直に答えるかどうか
そろそろ体力が限界近くまで削られているので、あれこれと頭を
とも言える。
(……ううん。削られているのは気力の方かも)
その珍しい黄金の瞳がまっすぐこちらを見ていた――――まるで、ヴェールの下の私の目を射貫くかのように。
強い
(何かを心に決めている人の目だ)
職業
(――――ビビと同じだ)
私が帝国に派遣されることが決まってからというもの、ビビはどこかおかしかった。
ずっと、何か思い詰めたような顔をしていた。
私はその強い眼差しを受け止め、ただ
こういうとき、私は
「…………聖女というのは、随分と
ひたとこちらを見る金の瞳の人は、私自身にはさほどの関心を示すことなく、口元だけで薄く笑った。
一事が
(ほんと、腹立つな〜〜)
毎回律儀に
だから、ぐっと腹立たしさをこらえて私は笑った。
「聖女にとって最も大切なのは『
そして、嫌みにならぬような柔らかな口調でおっとりと告げる。
ポイントは、最後にはにかんだような笑みを重ねること。
これがわざとらしくなくできるようになると、聖堂メソッドにおける『聖職者が他国で働くために知っておくべき知識上級編』の単位で優がもらえる。もちろん、私はちゃんと 『最優』を取得済みだ。
彼は、一瞬、
(このヴェールのせいで私の顔は見えていないでしょうけど、こちらからはよく見えているんですからね!)
私は顔の前の
すべらかな
顔の輪郭や目や口元がうっすらと見えるので、ほとんどの人がその不自然さに気がつい ていないけど、相手からは顔をしっかりと見定めることができない。聖職者の似顔絵を作ることができない、というのはそのせいだ。
私達ラドフィア聖教の聖職者は、基本的には教義によって
大司教以上の高位とならない限り、この認識阻害の呪が織り込まれたヴェールは聖職者必須の装備となっていて、人前でとることは許されていない。
無理矢理ヴェールを
過去にとある国の貴族が美貌を
そこからはじまったのは
我がラドフィア神聖皇国は宗教国家なので、戦を布告されても武力でやり返すことができない。
だが、武力こそ持たないもののラドフィア聖教は大陸最大数の信者を抱える。
その宗教的な
「…………すみません、言葉選びを間違えました。聖職者の方は皆、
呼吸をするような自然さで嫌みを口にしてくるので、少しだけやり返したい気分になった。
「人それぞれではないでしょうか? 私はさほど
選帝侯閣下、という単語に彼はわずかに反応し、私の方に強い視線を向けた。そのにこやかな表情は変わっていないけれど、私の背筋に小さな震えが走る。
(ヴェールがあって良かった)
顔を認識されない…………表情を読ませないというのは誤解されやすくもあるが、利点も多い。
聖職者という社会的に保証される地位であることに加え、一見して年齢がわからないために
目の前の彼の
(やっぱり、この人、選帝侯閣下ご本人です……)
言葉を交わしているうちに、私のその確信はますます深まっていった。
本人が意識しているかはわからないけれど、そもそもの態度が使用人のものではない。
もし、目の前のこの人が選帝侯閣下ご本人でなかったら、大変態度の悪い従者の所業を閣下に
(それで、幾ばくかの
「…………ところで、司教」
「はい」
改まって呼びかけられた私は、すっと姿勢を正した。
「そのヴェールをとっていただくことは可能ですか?」
彼はわずかにその身を前に乗り出す。何か、無言の圧をかけられている気がする。
「
高位の聖職者ほど顔を晒しているのは、成り代わりやなりすまし、すり
噓だろ、と思われるかもしれないが、過去、十年以上も法皇猊下が別人にすり替わっていたことに気付かなかったという事件があったために、大司教以上は説法の場においては必ず顔を見せることになっている。
私がまだ司教の身で顔を晒すことが許可されているのは、自分の研究結果を発表するための場で顔を晒すことを求められたからだ。
「…………契約、契約ばかりですね、ラドフィアの方は」
これをざっくばらんに訳すと、「契約、契約ばっか言ってるんじゃねえぞ、この
「仕方がありません。帝国のような大国とは違い、私達のような小さな国の人間は、そうでもしなければ己を守ることができないのです」
私は
顔は見えなくとも
「相手が誰であれ、帝国は一度約したことを
「存じております。……でも、
わざと小さく
本来、私のような聖職者……一位司教が派遣される場合は、『聖騎士』と呼ばれる護衛が最低でも二人つくことになっている。
その護衛を許可しなかったのは、選帝侯家――――帝国側だ。
護衛を許可しない理由は、私が付き添うことになるご令嬢がとても内気であまり男性に慣れていないため、聖騎士に怯えるから……ということだった。こちらは、しぶしぶそれを吞んだ形だ。
(そういう事情があるから、幾らゴリ押しが得意な帝国であっても、さらに無茶な要望を押し通すことはできないはずです)
「私が護衛となり、我が命に代えても
ビビが認めるほど顔が良いその人は、
「……それとも、私の誠意をお信じいただけないのでしょうか?」
これはたぶん
(もう少し柔らかな口調で、
押すよりも引く方が、人は受け入れやすいのだ。そして、私はこういう恫喝に近い手法には反発を覚えるタイプだ。
「誠意の問題ではありません。純粋に私が怖がりなのです――――私は根が臆病なものですから
私は、他意はないのです、と言わんばかりにそっと頭を下げた。
「……いいえ、まだまだ私の努力が足りないということですね」
ゴリ押しをやめた彼は、ヴェール越しの私の顔をじっと見つめている。
見えていないはずだけれど、まるで見えているかのようなまっすぐな眼差しだったからドキッとした。でもそう思ったことに不思議な反発心が湧 わ いて、心の中で
(努力不足って、あなた何の努力をなさったんですか? だいたいお会いしてまだ五日目ですし、こんなに長く話したのだって今が初めてなんですよ?)
そんな相手の誠意なんて、どうやって感じ取ればいいのかわからない。
「それよりも…………」
意味ありげに言葉を切り、私は目の前の人をまっすぐ
不意に
その瞬間を見計らって、たたみかけるように問いを発する。
「…………そろそろ、お話しくださいませんか?」
「…………話、とは?」
目の前に座る
「今回のお仕事の内容です。…………それと、なぜ、私は馬車などでここまで来なければならなかったのでしょうか?」
内心に溜め込んでいた非難をたっぷりこめて、
「帝国では魔法や魔術で転移することは、あまりにも軽々しい振る舞いだとして
(まあ、私のような小娘の非難なんか小鳥のさえずりくらいにしか感じないでしょうね)
相手は大陸最大にして最強と言われる帝国の宰相閣下だ。
だから、私はヴェールで見えないとわかっていても自分が一番美しく見える角度で笑みを向けて、再び問うた。
「…………では、私は、誰の身代わりにされる予定ですの? 宰相閣下」
彼の金色の目が丸く見開かれたのを見て、それまでに溜め込んだ私の
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