第18話

 肩を激しくコンクリートの地面に打ち付けていた。

 動かせないとか、うめくほどでもない。痛みはあるが、激痛とまでもいかない。

 だが、俺は七香を抱き留めて、道路に倒れ込んでいた。すぐ側には、車道、車が風を抜ける音がいつだって鳴いている。

「……なんなんだよ」

 その言葉は、俺自身にも向かってくる。どうして俺までもが、こんなことをしているのか。

「あのままだと、死んでたんだぞ」

 世界の人口が一人減るだけ。

「いい加減、起きろよ」

 身体を揺さぶってみるが、反応がない。呼吸や心音は乱れるほどに感じている。

「……気絶でもしてるのかよ」

 そっとその身体を地面に置くと、俺だけが立ち上がり、七香は倒れたままだった。

「もう、勝手にしてろよ」

 それだけ吐いて、肩を擦りながら、その場を去った。

 そして、十数メートル、振り返ると、まだ七香は倒れている。

 七香は、どうして起きないのだろうか――


 *

 

 体温計は三十九度を超えていた。

 七香は顔を紅潮させ、優希のベッドの中で、苦しそうに眠っている。

 おそらく流行風邪。国立先輩がかかっていたものと同じであろうか。

『お前、自分が何しているのか自覚しているのか?』

 神様は言ってくる。

「知らねーよ」

『百歩譲って、目の前で死なれて胸くそ悪くなるのは分かるぞ。千歩譲って、公道で倒れるやつを放置してるのも気が引けるのも理解できる。だが、それは救急車でも呼べばいいだろ。なんで自宅まで連れ込んで看病までしているんだ。頭おかしいのか、お前』

「知らねえって言ってんだよ!」

 一人叫び、空虚。

『ああ、救いようがねえな』

「全く、その通りだよ」

 七香は眠り続ける。

 俺は、一人自室に引きこもる。


 *

 

 時間だけが過ぎていく。

 相変わらず思考は安定しない。

 優希のところへ向かうこともできない。

 国立先輩には、家に近づかないようそれっぽい理由で優希のところへ行っていないメールを送った。

 神様の言うとおり、あのまま七香と関わらなければ、こんな気持ちになっていなかったのかもしれない。

 だが、結局俺は七香を追い出すことができていない。

 放っておくこともできない。

 夜になり、腹が減ると、七香のことにまで気がいく。

 冷蔵庫を漁れば、それなりに備蓄はしている。ある程度なら、選べるものを作れもする。

「……これでいいか」

 取り出したのは、栄養ドリンクゼリー。

 自分で買った気もするが、この前国立先輩が買ってきた気もする。

 それを、少し深めの皿にひねり出す。あとはスプーンを添える。

 簡単なものだ。

 簡単だから、すぐにこれを七香の元へ持っていかなければならない。

 ――それで、また激しく憂鬱。

 顔すら見たくない。矛盾しているけど。

『ははは、寂しい夕食だな。一人暮らしだからって、楽しすぎじゃないか』

 神様を無視することしかできない。

 しかし重い腰は上がってしまう。

 のそのそと、キッチンを出て、階段を上がって、部屋の前に着いて。

「おい、起きているか」

 優希の部屋に入ると、やはり七香はそこにいて。

 いまだ眠っていたが、少し落ち着いた様子で、小さな呼吸をしていた。

「……起きたら勝手に食べてろよ」

 近くの机に、ゼリーを置く。

 聞こえていないのも分かっていたが、一刻も早く部屋を出たい。

「……ん」

 そこで気配に気付いたからか、七香はのっそりと起き上がってきた。

「――起きたか? なら、さっさとそれ食え」

 それだけ言って、逃げるつもりだった。

「食べるって、なんで」

 返ってきた言葉が、それだった。

「……さっさと食って、休んで、治さないでどうすんだよ。このままここに居続けるつもりか」

 しかし、七香は俺の言うことなんか聞かずに、ベッドから立つと、そのまま出て行こうとする。

「おい、どこ行くんだよ」

「働きに」

 目の焦点も合わず、足をふらふらとさせながら。

「あほかよ。そんなんでできるわけないだろ」

 俺は、七香の肩を掴んで引き留めた。

「じゃあ、どうしたらいいの」

「は?」

 逆に、七香は俺に掴みかかってきた。 

「じゃあ、どうしたらいいの! 犯罪者の娘って呼ばれて、父さんも帰ってこなくて、学校も行けなくなって、必死に働いても、謝罪相手には罵倒され、挙げ句の果てに父さんを殺せって。どうやったら、どうしたら……」

 そのまま七香は、泣き崩れた。

 風邪なのか。俺が壊していたのか。

 ――でも、それなら、俺は一体何なんだ。いきなり両親を殺され、双子の姉は足を動かせなくなり、俺はその面倒を見なくちゃいけなくて、それが夢へ向かう心もへし折り、加害者の娘はそれ全部を許してもらおうとして付きまとってきて。

 でも、俺は泣いていなかった。

 目の前では七香が泣き崩れている。

 泣くぐらいなら、やめればいいのに。

 でも、彼女はやめないだろう。

 泣き止んで、正気に戻れば、またずっと許される手段もない贖罪を続けるつもりだ。

 それとも、もう正気に戻らないんだろうか。

 むしろ、彼女は壊れてしまったほうがいいのだろうか。

 もう二度と、立ち上がれないように、粉々にするべきなのか。

 でもきっと、彼女が立ち上がる悪夢を見続ける。

「……なんで、そこまでする必要があるんだよ。お前はなにも、関係ないだろ」

『それは、お前だろうが』

 ああ、その通りだ。

 全部神様の言うとおりだ。

 俺が頑張る意味もない。

 俺が夢をあきらめる理由もない。

 俺が優希を構い続ける理由もない。

 俺が国立先輩を巻き込みたくない理由もない。

 俺が全部一人で背負い込む理由もない。

 俺がマリアみたいにならない理由もない。

 ――だけど、俺は、泣くつもりも、正気を失うつもりも、壊れるつもりもない。

 そんなこと、できやしなかった。

 ――七香は泣き疲れたからか、そのまま床で眠ってしまった。

 そのまま、寝ていてほしかった。そうすれば、贖罪もすることなく、ただただ平々凡々に生きるだけだ。

 それでも、悪夢を見てしまうのだろう。

 それなら、悪夢を消すしかないのか。

 それができるのは、いったい誰なのか。

 七香は、俺の目の前で寝ていた。

 ただ、それだけだ。

 ――彼女は、確かに俺の怒りをかきたてる。だが、その怒りを、彼女にぶつけるべきだったのか。

 しかし、それなら俺の怒りはどこにいけばいい。また俺一人、苦しめというのか。

 そもそも、なんで彼女は俺の怒りをかきたてる。

「なんにも、知らないからだろ」

 俺のことも、俺たちのことも、家族のことも。

 でも、今の彼女にはそんなもの映っていなかった。

 あいつのためだけに――あるいは、あいつを裏切れない自分のために。

 自分自身すら、壊してしまっても、関係なく。

 奉仕を続けることが、その宿命だと勘違いしているのか。

 あるいは、それは真実なのか。

 ――でも、どうして今の俺には、七香が映っている。

 見えてしまったんだ。力尽きて眠る、壊れていく女の子が。

 ――俺は携帯を取りだして、電話をかけていた。


 *


『もしもし、中野ですけど』

「――立川です」

『久しぶりね。娘の七香に、また何か?』

「――いろいろあるんですけど、まずは謝らさせてください」

『どうしたの?』

「中野さんとした約束、破りました。七香に、お金のこと、誰からもらったのかも全部言いました」

『……まあ、それなら、仕方ないわ。いいのよ、気にしないで。元々立川くんに頼むべきことなんかじゃなかったし。あ、でもお金はいいのよ。それは、私の因果のけじめだから』

「中野さんが言うなら、好きにさせてもらいます」

『それで、ほかにはなにか?』

「……七香に、贖罪させようと思って」

『――なんでそう思ったのかは分からないけど、立川くんは、それで許せるの?』

「無理ですよ。――秋葉××を殺す以外では」

『……それで、贖罪なんかできないと思うけど』

「だから、できないし、終わらないんですよ」

『――立川くんが、そうさせたいの? 七香に、終わらない贖罪をさせ続けたい、のか』

「そんなわけないですよ。できるなら、一切関わってほしくなかった」

『なら、なんでそんなことを』

「七香が、そうしなければならないと思い込み続けるから」

『……それって、七香の意思を尊重したってこと? だから、なんで立川くんがそんなことをするの。気にする義理すらないでしょ』

「ええ、そうです。でも、仕方ないです。俺がそうしなければならないと思い込んでしまったので」

『……一つ聞いておくけど、七香は過去のことなんかきれいさっぱり消して、新しく人生を始めるほうが幸せになるだろうとは、思うわよね』

「……はい」

『娘の幸せを願わない母親がいないことも』

「――はい」

『――いいわ、それなら。立川くんの好きにしたらいい』

「……いいんですか、それで」

『立川くんを信じてあげない方がよかった?』

「かも、しれないです」

『――困ったことがあれば、なんでも言って。あげたお金も、もちろんそのままでいい。貴方が七香に愛想を尽かして放り投げるのであれば、それでも構わない。それで私が貴方を恨むことも何もない』

「……そう、ですか」

『親としては、失格だけどね』

「生きているんですから、どうにでもなりますよ」

『――立川くん、貴方も難儀な性格しているのかもしれないけど、貴方だって普通の男の子なのよ。だから、なにより貴方も幸せにならなきゃいけないのよ』

「……俺と七香って、やっぱり似ているんですか」

『――なるほど、そう、貴方は思ったわけね。だから、憎くても、入れ込んで」

「……」

『全然似てないわよ。だから、貴方が七香のことを背負う理由なんてこれ一つもないのよ』

「……分かりました」

『……七香を、よろしく』

 電話は切れた。

 足腰は重くなった。

 床で眠っているのは、確かに普通の女の子なのかもしれない。

 だから、俺は泣かないようにした。


 *


 朝、否が応でも朝。

 再びベッドへ押し込まれた七香は、それまで目覚めることはなく。

 俺自身は、結局頭がぐるぐる、自分の出した結論に確信を持てないまま、一睡もできず、ずっと七香の側に座っていた。

 ――そういえば、ゼリーがそのままだった。もったいないので、食べてしまうかと再び手をつけた。

 温くて、ぐちゃぐちゃとなったそれは、ぎりぎり食べきれるほどのほどよいまずさであった。

「――あ」

 食べきった直後、七香はまた目が覚めていた。今度は、見る限りではしっかりと目に焦点はあった。

「立川、さま?」

 しかし、それを確信を持てずにいる様子だった。

「体調、どう?」

「えっと、その、大丈夫、ですけど、ここは?」

「覚えてない? 車道で突っ立ていたことも? ここが俺の家であることも?」

 七香は押し黙る。だが、徐々に表情からは生気を消えていき、気付いたら、ベッドから飛び出し、また床に頭を押し当てていた。

「申し訳ございません。危ないところを助けてもらって、看病までしてもらって、その上、あんな失礼なことを言って」

「いいよ、別に謝らないで」

 それでも、頭を上げようとしない七香に、俺は続ける。

「――謝るのをやめて、優希に会いに行こう」

 七香と俺の、目が合った。

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