第16話
珍しく晴天の昼から、夕刻の空はただ真っ赤になっていた。
本日もまた終わりが近づき、だが、また一つ俺の始まりを報せる。
『飽きないねえ、優理も』
神様は相変わらずぬいぐるみから口を出してくる。
今日も優希の病室へ向かうところ。
『そんなめんどくさいこと続けて何になるっていうんだよ』
「……優希を見捨てて、何になるっていうんだよ」
あたりに目配せ、人がいないことを確認してから、言葉を返す。いや、むしろこんなこと独り言だとしても、迷いなく言うべきだったか。
『そんなの、お前が幸せになるに決まっているだろ』
幸せとは一体何か。
「幸せにしたいのかよ、俺を」
『当然だろ、俺様は神様だからな』
そんなの、いつだって、自称だ。
「――なら、過去をなくせよ」
『それはお前じゃねえだろ』
それらしい言葉に、意味などなく。結果、神様が神様たる理由は、なにも分からず。だが、俺もこの声にはもう慣れたものだった。
やがて、病室へたどり着く。
その前に、あたりに不審な影がないか自然と気にする自分もいる。
もう気にしたくもないけど、いまだ慣れることもなかった。
「らっしゃい、優理」
変わらずベッドの上の優希。漫画を手にして、かつ近くにはそれが高く積まれている。
「国立先輩は今日来ないの?」
「風邪ひいたらしいから、今日は来ないよ」
わざわざ電話で、じゅるじゅる鼻水を鳴らしながら、
『ごめんね、風邪ひいちゃったから、当分は優くんのところに行けないの。』
と、必要もない謝罪まで混ぜながら伝えてきた。
「じゃあ、久しぶりに優理と二人っきりだね」
優希が何気なく言う。漫画はもう、片していた。
「それなら、勉強に集中できるな」
「まあ、国立先輩のほうが教えるのうまかったけどね」
ノートを広げながら、当然のように優希は言ってきた。
「……俺、へたか?」
うまいとも思っているつもりもないが、真正面から否定されるほどのものとも思っていなかった。ショック、と言葉にしたくはないが、でも、動揺はするほかなかった。
「国立先輩がうまいんだろうけど、ぶっちゃけ、ね。初めのころは比較対象がなかったからあれだったけど。優理は物量が過ぎる」
それには返す言葉もない。
「……まあ、俺自身が物量で乗り切っていたからな」
でも、それこそが確かな力になるとも確信していた。
「だから、優理は疲労でぶっ倒れたりするんでしょ」
数日前の記憶が、すぐによみがえる。
「優希って、それ、知っていたっけ」
ふと、それは伝えていない気もした。だから、そのまま聞き返していた。
「知らないわけないじゃん」
それこそ優希は、なぜそんなことを聞くのか、と言わんばかりに。
「……それもそうか」
同じ病院にいるんだし、そもそも国立先輩が出入りしている時点で――か。
しかし、幾分か今日の授業はゆったりと進んでいた。
当然、ゆっくり物量なだけで、時間も無駄に過ぎていくだけで。つまりはもっとスピーディにやるべきだったということ。
「あ、そうそう。私、来週あたりに退院するから」
突然、優希は語りだす。
「――は?」
俺の時間はものの見事に止まる。
「だから、退院する」
そのペンを止めずに、また言う。
「――いや、それは『あ、そうそう』で伝えるようなことじゃないだろ」
その初耳に、俺だけが止まっている。
「いや、退院するものは退院するし。ここから出ていくし」
「そうじゃなくて、そういうことは、ちゃんと俺にも相談してくれよ。というか、来週あたりってなんだよ。来週のいつだよ。いきなり火曜日の昼間に帰ってこられても困るぞ」
心配事が膨れ上がり、ただそれを目の前の優希にぶつける。
「あー、いつだっけ。確認しておく」
そんなものどこ吹く風か、また優希は飄々なものだ。
「いや、だから、そういうわけではなくてだな」
「ま、別にいいでしょ。いつ帰ってきても。私が、私の家に帰るだけなんだし」
――言われてみれば、そんな単純なことなんだ。
「――でも、まだ車いすなんだろ」
「まだっていうか、一生」
――俺の息は、止まりかける。
「……それでも、やっぱり、それなりの準備は必要だし」
少し、息を吸い。
「当分はヘルパーさんが来るから大丈夫」
だから、ゆっくり飲み込み、落ち着いて優希を見た。少しだけ、笑っているように見えた。
「……ああ、そうだよな。ようやく帰ってこれるんだもんな。よかったよな」
やっぱりそれが、俺の中から出てきた迷いのない結論だった。
「うん。そうだよ。よかった」
二人して、笑えていたのか。
『んじゃ、これが幸せな結末ってことでいいのか? いいわけないよなあ。少しぐらい、鏡でも見てだな、』
――ガラッカラ、
ノックすらなく、扉は勢いよく開かれる。
その時の雰囲気など、すべてその音にかき消され、集めきった。
「やっほー、ゆうちゃん」
マリアがいた。
七香ではないという安堵はすぐにきた。
「……誰?」
やや不愉快そうに睨みながら、優希は聞いてきた。
「そこそこ広い病室」
マリアは優希には一瞥もせず、周りを見渡して、ただただ感想をつぶやいていた。
「……元生徒会長。例の」
「――ああ、いきなり辞めた人ね」
「うん、そう」
そんなこと言われるのも気にすることなく、マリアは余裕綽々とあたりを物色し始める。
「――何しに来たんですか。というか、なんでマリア先輩がここを知っているんですか」
その姿に、こちらとしては嫌な予感しかしなかった。マリアがいて、ろくなことなど、ほとんどなかったと。
「七香が知っているほうが不思議でしょ」
――すぐに俺は、その口を優希から引き離すため、マリアを連れて病室を飛び出していた。
嫌な予感は、するまでもなく、ぶっちぎってきた。
「へえ、ゆうちゃんのくせに、強引だね」
大人しくついてきたかと思うと、嘲り笑うように言われる。
「優希の前で、あいつの話をするのはやめてください」
どこで、どうやって七香のことを知ったのかは分からないし、俺にはその仮定など理解もできないだろうけど、まずはそれだけだった。
「……うん、いいよ」
マリアは素直に頷いて見せた。
「……本当ですか?」
「そうやって、もがくゆうちゅんを見るほうが楽しそうだから」
にんまり笑って、応えてくる。
「――なんなの、本当に、マリア先輩は」
俺は吐き捨てるように言っていた。
「なにもないよ、私には」
「なんです、それ」
「捨てるもの全部捨てきったからね。いまはただ、空っぽ。すごく興奮するほどにね」
「……興奮するにしても、俺にわざわざ絡まないでくださいよ。何しに来たのかもよく分からないし」
「今日来た理由? それなら、仲間がほしかっただけだよ」
「仲間って?」
スッとマリアは、指を指しだし、俺に向けてくる。
「今日は、その宣言に来ただけ。いつか、仲間になってって」
ただそれだけで、マリアは背を向ける。
仲間の意味もよく分からないが、ふと思い起こすのは、マリアが以前言っていた、俺はマリアに『似ている』ということ。そんなこと、到底思えないが、マリアには仲間にしたいと思うほどの確信があるのだろうか。
「ああ、あと、『先輩』も、もういらないから。それももう捨てているし」
それだけ言って、本当にマリアはここを去っていく。
「――あの、100万円、返したいんですけど。このあいだ、マリアからもらったあれ」
それに、最後俺は声をかける。
「いらないなら燃やしといて」
「そんなことできるわけないでしょ」
「私が札束を燃やすところを見たいってこと?」
マリアは、もう消えていった。
※
残された優希は、常識外れすぎるマリアへの恐ろしいほどの愚痴と、俺がわざとらしく避ける七香という言葉に迫ってきた。
それを何とか躱した帰り道に、三日月が浮かぶ。
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