第15話 回想 後編

 別のクラスの下駄箱に目をやる理由は、何もないはずだった。

 ここからでは、真新しいスリッパが古びた箱に押し込まれているところが見える。

 面白いことなど何もなく。それこそ真顔で見続けている。

 部活もなかったはずの、放課後の自由な時間はそれだけで過ぎていく。

「そもそも、2回も上履きは狙わないか」

 2回目を狙われたとして、どうしたというのか。

 意味もなく下駄箱の近くにいるのをやめ。

 意味もなくまた移動。

 その先は、優希が所属しているだけのクラス。

 放課後になれば、そこに残っている生徒など、誰もいなくなって……

「ああ、ここにいるんだ」

 小さく、小さく、俺の言葉が出る。

 いたから、なにがなんだというのか。

 女子生徒が2名、夕刻のクラスに残っていただけなのだ。

 誰だかはよく知らないんだし。

 そもそも彼女らが何をしているかなど、興味も持つはずないはずなのに。

「そもそも、俺は優希の机の場所すら知らないし」

 でも、なんでか優希のいつも持っている、なんにも入っていない潰れた鞄が、彼女たちに囲まれていた。

 面倒くさがりで、いつだってノートも教科書も、学校に置きっぱなしにしているんだろうって、容易に想像できるそれが。

 だから、なぜか、確信していた。

「なにしているの」

 いつの間にか、自分自身は一歩踏み出している。

 2人はすぐにこちらへ向いてきた。

「上履きやったの、あなたたち?」

 その言葉が、自分のものとも思えていない。

「優希さんの、双子の弟?」

 2人のうち、1人が言ってきた。

「……そうだけど、だから?」

「見逃して、くれない?」

 固まった、たどたどしい言い方で。

「……見逃すって? どう言うこと?」

「……あなたも、嫌いなんだよね、優希さんのことが」

 言われるまでもないことだった。

 だが、なぜ彼女がそのことを言葉にできているのか。

「なんで、俺が優希を嫌っているって、知っているの」

「優希さんが言っていたんだよ、弟に嫌われているって」

 それもまた、容易に想像できることだった。

 なにも気にすることなく、自分の感じることをそのまま口にしているんだろうって。

「……そうだよ、俺は優希が大嫌いだよ」

 俺は初めて、それを言葉にしていた。

「分かるでしょ、優希さんが変だって」

「……分かるもなにも、なにがあっても家族だからな」

「私たちも、あんまりいいことだとは思わないけど、でも、こうしないと、いつだってああいうふうに自分勝手にされていると――」

「それなら、無駄だよ。あれはなにやっても直らない」

 俺は彼女たちの囲む優希の鞄を取り上げる。

「だから、もうこういうことはやめたほうがいいよ。俺も誰かに言うつもりもないから」

「……ごめんなさい」

 話していた一人は、申し訳なさそうに謝ってきた。

 もう一人は不服そうにしていて。

 そして、水か何か、バシャっと俺の顔に目掛けてかけられた。

 ぼたぼたと、教室の床に垂れていく。

「え、あ、先輩?」

 さっきまで話していた方の女子は、また困惑していた。

「ユミコも、なに勝手に帰そうとしているの。こいつは、優希の兄弟なんでしょ」

「でも、誰にも言わないって」

「なんでそんなの信じるんだよ」

「優希さんのこと、嫌いだって」

「優希自身が言っていたことだろ!」

 この先輩の言うことは、確かに真っ当だった。

「……本当に、大嫌いですよ、俺は。ただ、上っ面だけ嫌って、みみっちい嫌がらせする奴らと、いつも一緒で家族で大嫌いな俺を、一緒にはするなよ」

「は?」

「お前如きが、優希のことでうだうだするなって言っているんだよ!」

 それだけ言って、俺は帰ろうと振り返った。

 ただで帰してくれるのか、もしくはまた嫌がらせは俺も巻き込まれるのかは分からなかったけど。

 でも、なんでか、彼女たちは、それ以上俺に何か言ってくることもなく。

 俺はそのまま帰ろうと、

 ――なんでか、そこに、優希がいた。

 きょとんと、教室の入口近くに、突っ立っていた

 ――

 ――

「……」

「……」

 どこからいたのか。

 どこから聞かれていたのか。

 ――ああ、そうか。そういうことか。

 彼女らが押し黙ったのは、俺の馬鹿な言葉など、全く無関係であり。

 ただ、そこに優希がいたから。

 俺はただ、恥ずかしいやつなだけであったんだ――

 いつの間にか、鞄を優希に押し付けていて。

 夕焼け空を走っていて。


 ※


 家についたって、逃げ場なんかないから、自分の部屋で、自分だけのベッドにうずくまっていた。

 時計も、母さんの呼び声も、全てを無視。

 夕暮れは闇になり、闇はずっと続く。

 でも、まだまだ時間は進んでいない。

 それがほっとするのか、不安にさせるのかも分からない。


 こん、こん。


 小さなノックが二つ鳴る。

「優理、ちょっといい」

 ドアは開かれ、優希の姿が見えた。

「……暗っ」

 すぐに電気はついて、光に慣れぬ眼はただ眩しかった。

 優希はジャージ姿で、風呂上がりだから、髪は少し濡れていた。

「……分からないんだよね」

 優希は言いながら、勝手に椅子に座る。

「全然、分からないんだけど」

「なにが」

「優理はさ、私のこと、嫌いなんでしょ」

 優希は、きっぱりと、俺の目の前で言いきった。

「――そう、なんじゃないの」

 だから、俺もそう返すしかなく。

「じゃあなんで」

「なにが、なんで」

「なんで私の鞄を取り返したの」

 真実かのように断言してくる。

「……取り返してないよ」

 嘘のようにしか否定できない。

「いや、取り返していたでしょ。そう見えたし」

 対して、優希の口調は変わらない。

「一緒に盗ってただけ」

 勢いで小さな言葉が続く。

「そうは見えなかったけど」

「……初めからいたわけじゃないだろ」

 俺は話を逸らしている。

「雰囲気で大体分かるし、先輩たちも白状したし」

 白状させたのだろうか。だが、それで俺の言い分もなくなる。

「……別にいいでしょ、どうでも」

「どうでもいいとかよくないとか、一言『嫌い』かそうじゃないか言うだけじゃん」

 それが一言で済むと思っているんだ。

「――ああ、そうだよ。俺は優希が大嫌いだよ。そんなやつに鞄を取り返されて、さぞかし不快なんだろ」

 開き直ったように言った。

「いや、そんなわけないじゃん。助かってるし、めっちゃありがとだし、全然嬉しいけど」

 ――本当に、なんでそんな言葉すら簡単に出せてしまうのだろうか。

「なら、なんも文句ないだろ」

「だから、分からないって話。嫌いなやつに対して、そんなことしないでしょ」

「やっていいことと悪いことの区別が俺にはないって?」

「少なくとも、見ず知らずの人を助けるのに、積極的ではないよね。道端で困っている人に、自分から声かけに言っている?」

「……」

 その問いには、嘘でもはいとは答えきれず。国立先輩との出会いが、想いをよぎり。

「でもその考え方からすると、好きでも嫌いでもない人を優理は助けないんだから――」

「大嫌いだよ」

 それだけは、否定した。

「……そんなに嫌いなら、なんで一緒になって鞄を隠さなかったの。ううん、隠さなくたっていい。見て見ぬふりすればよかっただけじゃない。取り返す意味も分からない」

「どうでもいいだろ、そんなの」

「どうでもよくない」

 迫る優希。

「というか、そもそもどうでもよくないから、優理は私から逃げているんでしょ」

「は?」

「優理にとって、どうでもよくないから、私はここにいるの」

 ――なんで、それは分かるんだ。

 じゃあ、なんで、優希は全然分からないのか。

 ギラギラとしていく目がどこに焦点を合わせることもできなくなった。

「……ほんと羨ましいよ」

 言葉は漏れていた。

「ただ真っ直ぐで、それをそのまま突き抜けて、したいこと、言いたいことを全部出しきれていて」

「――羨ましいって、つまり、嫉妬しているってこと?」

「全然ちげーよ!」

 声は、随分と張り上げていた。

「誰が優希が挫折すればいいと思っているんだよ。そんなこと思ってもないし、してほしくもないよ」

「なら、ますます分からないんだけど」

「――それを、優希が分からないからだよ」

 全てが言葉に出たつもりだった。だが、優希は未だ理解が及ばず、首を捻る。

 こんなんだから、いじめられたりするのだろうか。

 でも、俺の言葉はまだ続く。

「逆に聞くけど、優希は、俺に対してどう思っているわけ。挫折しろって思っているわけ」

「いや、そんな気持ち悪いこと、思うわけないでしょ」

 本心では、そうは思っているんだろう。

「――違うでしょ。優希は俺のこと、邪魔してる」

「いやいや、そんなことないけど」

「じゃあなんで、俺が服飾しているの、ヘラヘラと馬鹿にしたんだよ」

 この前のいざこざでも、それより前からずっと、優希はそういうことを言ってきた。

「いや、あんなの冗談でしょ」

「冗談だろうが、なんだろうが、俺は優希にはそんなこと言われたくない」

 なんで、憧れている人間に、そんなことを言われなければいけないのか。

「俺も、優希にはそんなこと言うつもりもないし、言いたくもない」

 なんで、そんなこと言えると――嫌っているとすら思われてしまうのか。

「それとも、優希は俺になに言われても、冗談ならなんでもいいのか」

「――ごめん」

 優希は言った。

 確かに俺は、言われていた。

「別に私は、優理に馬鹿にされても大丈夫かなと思ったけど、実際に言われてないから、分からない。それに、優理がそう思っているなら、言うべきじゃなかった」

 馬鹿にされるのは嫌とか、嘘でも一言で言えないのだろうか。

 ――でも、少しだけ、俺の興奮は冷めてくれていた。

「……もういいだろ。俺が優希を嫌いな理由は分かったんだから。それを無理に直せなんて言わないし」

 俺はそう言って、今まで発した言葉を思い出す前に、ベッドへ顔を埋めた。

「いや、まだだよ」

 ただ、優希はまだ続けた。

「見せて。優理の目指すもの」

「は? 目指すものって、なんだよ」

「――私は、優理がなにを目指しているのか、そんなに知らなかった。だから、それを見たい」

「見て、どうするんだよ」

「優理が目指すものが、私の目指すものと同じなのか、それを確かめるから」

 優希は俺をベッドから引っ張り起こした。

「……確かめて、どうすんだよ」

「知りたいの。本当に、優理は私と同じように目指しているのか。馬鹿にしないって、口で言うだけより、実際に確認して、優理のことを判断した方がいいでしょ」

 思いもよらない言葉だったが、意外ではなかった。

「……確かめて、優希が違うと思ったら、馬鹿にし続けるって言うのかよ」

「口にはしないわよ」

 無茶苦茶だ。

 だが、優希の俺を起こす手は、あまりに強く、俺も言われるがまま、今まで作ってきたものをそそくさとクローゼットから出していった。

 優希は、それを見続ける。真剣そうな表情はしてくれていたように見えた。

「……で、どうなんだよ」

 黙り続ける優希に、俺のほうから小さく言った。

「……分からない」

 結局、出てきた答えは同じだった。

「だってこれ、私が着るものじゃないでしょ。サイズも全然違うし」

「いや、そりゃ、そうだけど」

「うん、だから、分からない」

「……だったら、優希用に作ったんなら、分かるのかよ」

 俺はそう言っていた。

「作ってくれるの?」

「迷惑かよ」

「ううん、楽しみ」

 俺はもう、ベッドに潜り込んだ。


 ※


 ゴン、ゴン、ゴン!


 強いノックが三つ。

 瞳は、優しい朝の日差しが捉えている。

「優理、起きろ!」

 ドアが勢いよく開いたかと思うと、優希も勢いよく入ってきた。

「なんだよ、あさから」

「行くよ」

「いくよってなんだよ」

「朝練」

「あされん?」

「そう、朝練」

「なんのだよ」

「走る」

「……分からんし、なんでだよ」

「だって、私は優理のことが分かるように、付き合うって決まったんだから」

「……は?」

「忘れたの? 私は優理がやっていることを理解しようとしたじゃない。これからも、優理が作るものを見てあげる約束、したでしょ」

 ――そんなニュアンスではなかったと思うが。

「それなら、優理も私のことが分かるようになるべきじゃない」

「……なんでそうなる?」

「だから、朝練も私に付き合うべきじゃない?」

「だから、なんで、そうなる!」

「やっぱり、不公平はよくないでしょ」

 何事も無理矢理ねじ伏せる悪意だらけの笑顔が炸裂していた。

「……無茶苦茶」

「無茶苦茶でもなんでもいいけど、早く起きて、行くよ」

 着替えもままならぬまま、腕をとり、引っ張られる。

 確かに、眩しい朝を迎えていた。

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