第14話 後編

 厚切りの食パン。

 対角線で半分に切って、2枚の三角。

 ボウルの中に放り込み、ドバドバと卵液に浸していく。

 熱を帯びるフライパンには、溶け出してくバターの欠片。

 重量を得た食パンを落とせば、ジュッと弾く音と焦げだす糖が匂い立つ。

 小雨が降る薄暗い日曜の朝から、そこそこ手間がかかるものを作っていた。

 一人の朝など、普段はトースト一枚に牛乳で簡単にしているが、今日はそういうわけにもいかなかった。

 薄らと焦げ目がついてきたところで、ふわりと揺れるフレンチトーストを皿に盛る。

 湯気が立ち上るまま、寝間着姿の国立先輩が待つテーブルに運んだ。

「はい、どうぞ」

 国立先輩は、開かない眼をゆっくり摩り、こっくりと頷いた。

「……ありが、とう、いただきまぁす」

 言葉もおぼつかず、手も動かない。

 朝が苦手なのか、それとも寝床が変わって眠れなかったのか。

 ともかく、未だ先輩は夢の中から出てこれない。

「まだ眠いなら、後で食べます?」

「うぅん。食べれるぅ」

 ようやくフォークを持ったと思ったら、皿の上には辿り着かず、力なく床に落ちてしまった。

「あぁ、ごめん……」

 椅子から降りて、床に座り込んでまでフォークを拾ってしまう。

「いいですよ、交換します」

「うん……お願い……」

 眠たそうに、右手をあげてフォークを差し出してくる。

 その所作で、先輩の優希の寝間着は少し大きかったからか、左肩が少しはだけていた。大きく見える素肌を凝視するわけにもいかず、少しだけそっぽを向いてフォークを受け取った。

 その自身の姿に、国立先輩は気にすることもできていない。立ち上がることもできず、ペッタリと座ったまま。

「やっぱり、寝ましょ。昼までくらいなら全然寝ていてもらっていいですから」

「うぅん……」

 返事は弱々しい。

 台所へ行き、新しいフォークを持って戻ると、国立先輩はその体を床に倒していた。

「せんぱーい?」

 小さな寝息だけが返ってくる。

 また、眠りについていた。

 寝間着も乱れたまま、全く無防備な寝顔を晒していた。

「――はあ」

 分かっているくせに、わざとらしいため息だった。

 このまま床で寝かせるわけもいかないから、その先輩の体を持ち上げる。

 肩あたりと膝裏を前面で抱え、所謂、お姫様抱っこ。

 意識もせず持ち上げてしまったので、わざわざ持ち変えることもできず、ゆっくりと送っていく。

 でも、布の上からだとしても、妙に先輩の体温を感じる。鼓動もまた聞こえてきそうだ。

 階段は、さらにゆっくり進む。

 持ち方が悪いからか、布はどんどん乱れていく。

 捲れた上着に、わずかに肉付きしたお腹と、小さいあなのおへそが見えた。

 ――俺も、狂ってきてないか?

 考えるのをやめよう。先輩の隙は見て見ぬふり。

 その体を、ベッドの上に運ぶことだけ考えればいい。

 歩いて、歩いて、先輩の体と、歩いて、歩いて、部屋に入って。

 机とベッドしかない、あまりに簡素な部屋。

 そのベッドの上に置いた。先輩の体が隠れるように雑に布団をかける。

 それだけなのに、妙に息切れしていた。

 最近運動していなかったから、体が鈍ったということにしておこう。

 俺は逃げるようにして、部屋を後にする。

 ――なぜか、部屋を出た先に、優希の部屋があった。

 振り返ると、俺の部屋があった。

 昨日は、国立先輩に優希の部屋で寝てもらったはず。

 だから、運ぶとしたら、優希の部屋のはずだったんだが……

「どこの誰だよ。自分の家の部屋を間違えるの」

 自虐的な独り言すら漏れた。

 また、国立先輩を運ぶために、簡素な俺の部屋へ――

「……え?」

 国立先輩は、起きていた。

 半分夢の中、でもなく、バッチリと。

 ベッドの上から上半身を起こして、寝間着の乱れを直していたから、間違いなかった。

「――あ」

 先輩もまた、俺が入ってくるのを見て、固まった。

 二人とも動かない。

 窓ガラスに小雨が濡れる音すら聞こえてきそうだった。

「――あの、いつ、起きてました」

 口を開いたのは、俺だった。

「えっと、階段で、上っているあたりだったかなあ」

「ああ、そうですか」

 聞いたところで、いいこともなく。

「……ごめんなさい。勝手に国立先輩を担いで運んだりして」

「え、いやいやいや! ゆうちゃんが謝ることなんてないよ! 私こそ、勝手に床で眠っちゃったんだし。それをゆうちゃんがわざわざ、運んでくれたんだし。というか、そもそも、お姫様抱っこなんて、悪いことじゃない! されて悪い気になる女の子はいない! むしろバンバンするべき!」

「……え、あの、はい」

 先輩が気遣ってくれているのは分かっているけど、変に意識した事実は消えるわけでもなく。

「なんなら、もう一回して! 私はウェルカム! お願いします」

「えっと、その、無理です」

「そ、そうだよね。重かったよね、疲れたよね」

「そういうわけ、でもなくて」

「え、あ、そりゃ、ゆうちゃんにも選ぶ権利はあるよね。本当は、好きな女の子を抱っこしたいよね」 

「……その、なんというか、俺も、恥ずかしいんで」

「……」

 変な空気だ。

 嫌ではないけど、早く終わって欲しかった。

「――朝ごはん、食べましょうか」

 だから、何事もなかったように言う。

「あ、うん。そうだね。うん。私は、着替えてくる」

 駆け足で、階段を降りていく。

 フレンチトーストは、まだ微かに湯気が立っていた。


 先輩もまたすぐに、キッチリと決まった昨日の服装で降りてくる。

「うん、それじゃあ、食べようか」

 国立先輩は、勢いよく席についた。

「はい、どうぞ」

「って、ゆうちゃんは?」

「俺はもう食べました」

 嘘だった。

「洗濯とかやっているんで、ごゆっくり」

 俺は、早足に立ち去るため、適当言った。

「あー、待って待って。それは私がやるから」

「いや、いいですよ。別に」

「ダメダメ! 泊めさせてもらっているし、そもそもここまできたのはゆうちゃんを手伝うことなんだから」

 去ろうとした俺の手を、また先輩は掴んだ。

 ――その手先が仄かに温かいだけなのに。

「そこで大人しく座っていなさい」

「……分かりました」

 頷くことしかできず、言われるがまま、向かい合わせに座った。

 喋ることもなく、ずっと遠くを向いたままだけど。

「――あはは、本当に、そんな気にしなくていいからね。抱っこの一つなんて」

 それを察知したからか、また気遣ったようなことを言ってくる。

 だが、まだどうしても意識を平常に戻すことはできない。

「――それにしても、フレンチトースト、美味しいね。ゆうちゃんもちゃんと料理作れたんだね」

 先輩のために作っていたと言う事実が、小っ恥ずかしさにしかならない。

「――あの部屋、ゆうちゃんの部屋だよね」

「そう、ですけど」

「随分と綺麗になったね。前はもっと、雑多だったというか。ごちゃごちゃしていたというか。好きなことを、好きなだけ出し尽くしていたような感じだったけど」

 ……話題を変えようと、必死なのだろうか。

 だから、目についていたものを、必死に言葉にしているのだろうけど。

「なんか、普通になっちゃったって感じ? 今までのゆうちゃんらしさがなくなっちゃった? あの、真っ直ぐに頑固だったはずの、ゆうちゃんの部屋が……」

 大きかったはずの俺の羞恥心も、どこかに消える。

「ゆうちゃん、デザイナーに、なるんだよね?」

 知ってか知らずか、察してしまったか、先輩はそんなことまで口にした。

「……俺は、国立先輩に来てもらって、楽しかったですよ。昨日、特に疲れていたんで、だから、すごく助かったんです」

「――うん」

 日曜の朝、これから俺は何をする。

 【なんでもできる】のその先に、あっけなく夢をもがれた優希がいる。

「作りたいものが、もうないんですよ」

「――苦しいの?」

 そうかもしれない。

 でも、できないし、やる気もないから、本当のところはよく分からない。

「それじゃあ、手芸部を作るのも、辛い?」

「……先輩といるのは、楽しいですよ」

 国立先輩は、フレンチトーストを一口食べる。

「うん、やっぱりゆうちゃんの手料理、おいしいよ」

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