第11話
しとしとと雨が降っていた。
空は薄暗い雲に覆われている。そろそろ梅雨の季節に入ったのか。
玄関から赤い傘を一本取り出して、外に出る。
広げた赤い傘は、派手に飾るが、結局雨を弾くだけ。
元々は母さんの傘だったけど、俺はこの色合いが好きだったからか、子供のころよく使っていたっけ。
俺が母さんの傘を使うもんだから、母さんは俺の子供用の傘を仕方なく使って、びしょびしょになっていた。
ああ、そう思うと、随分とこの傘も壊れずにいてくれたものだ。
最後まで、大切に使ってやらなければならないのかもしれない。
優希はこの色、好きなのかな……。
――昨日、結局彼女は現れなかった。
病室には国立先輩が先回りしていただけ。
肉体的にも精神的にもボロボロだったが、休むという考えには至らず、最後まで残っていた。
また、国立先輩に怒られてしまったが。
「ゆうちゃん、本当にこれ以上無理するようだったら、家にまで乗り込むからね!」
とか言われたからでもないけど、雨降る土曜日に、俺は一人、外出していた。
駅の近くの路地裏、よく行く土地だけど、入ったこともない道に足を踏み入れる。
薄汚い道に、黒くくすんだ看板を掲げる店。
開いているかも閉店しているかもわからない風貌に、扉へ手を伸ばすと、いとも容易く店内への道は開けた。
店主がいる。カウンターとテーブルが数脚。カウンターの奥にはサイフォンがコポコポとしているあたり、喫茶店というのは間違いなさそうだ。
俺のことを見ようともしない店主に、なぜか客の俺が会釈しながら、奥の席へと向かう。
そこには、見覚えのある女性が既に座り、コーヒーを口にしていた。
「――お電話ありがとう、立川くん」
中野夏代――昨日、マリア(と一応俺)が盗みを謀り、俺だけ無惨に叩いた相手だった。
「まあ、電話をしてくれたというあたり、もう既に、七香のことで、何かあったのよね」
俺は彼女の向かいにつく。
「いえ、その話もあるんですけど、まずは謝罪しなければならないことがあって」
「謝罪? どうして、立川くんが、私なんかに」
周りに視線をやる。
客は俺たちしかいない。
店主もぼうっと備え付けのテレビを見ていた。
それだけ確認して、持ち合わせていた小さな鞄の中から、恐る恐る昨日の札束を机の上に出す。
「これ、返します。本当に申し訳ございませんでした」
頭を下げた。土下座をするわけもなく、自然とペコリと。
「え、なにこれ」
だが、返事は素っ頓狂なもの。
「えって、これ、マリア――じゃなくて、中野さん、というか、娘さんが盗ったものでしょう。分け前って言われて、俺がもらいましたよ」
「いや、マリアはそんなもの盗ってないわよ。第一、家にそんな現金なんか置いていないし」
「――それじゃあ、これは?」
「立川くんがマリアにもらったっていうなら、マリアが払ったものじゃない?」
「い、いやいや。だって、高校生が、こんな大金を?」
「マリアは、高校入ってからずっとアルバイトしていたって聞いたし、それぐらいは2年で稼げるわよ」
返す主はおらず、呆然と札束をカバンに戻した。
マジで、マリアは、いったい……
「じゃあ、マリアはなにを盗ったいうんですか」
「それはマリアに聞いて。私から話すべきことではないわ」
「――そもそも、マリアは、中野さんの娘なんですか」
「血は繋がってないわよ。旦那の連れ子」
中野さんは、淡々と言った。
「だから、今はマリアって言っているんですか」
「違うわよ。私が出会った頃から、あんな感じだったからよ。少なくとも、旦那から聞いている『中野綾子』なんて、一度も見たことない」
「でも、昨日は、綾子って言ってませんでした?」
「そんなの、マリアが聞いているかもしれないんだから、そう言うわよ。いくらなんでも、私がそんなこと言ったら、惨めすぎるでしょ」
店主が席の近くに来ていた。
中野さんは、もう一杯コーヒーを頼んだ。
俺はコーラを頼んだ。
「この話、マリアには言わないで――」
中野さんは、残っていたコーヒーを口の中に突っ込んだ。
「まあ、どっちでもいいか。マリアは私が考えていたより、遥かに強かったし。あの子とはてんでものが違った」
空のカップが、かちゃかちゃと揺れた。
「それより、本題。七香は、立川くんの前に現れたのね」
中野さんは、すっと眼差しを鋭く、俺と向き合ってきた。
「その前に、一つ、いいですか」
「うん」
「中野さんって、七香とどういう関係なんですか」
中野さんは、手を前に出し制止してくる。
「その話は、後にしましょう。先に話しても、いいことないわ」
コーラだけ、運ばれてきた。
「それで、七香とはどこで会ったの」
「優希の入院先です。病室の前にいたところで、俺とだけ会いました」
「はあ、そんなところまで突き止めていたの」
コーヒーが運ばれてくると、早速口にし始めた。
ため息でコーヒーが冷めそうだった。
「七香はなにをしてきた」
「父親に代わって謝罪と、現金を手渡してきました」
「現金、ねえ。立川くんは、そんなの受けとりたくないよね」
コーラを一口、喉に含んだ。
「――受け取りました」
「え、あ、そうなの?」
「その、頭を下げられて」
「受け取ってくださいって?」
「――地面に頭をつけられて」
コーヒーを咳き込んだ。
「ははは、それを、病院で」
自嘲気味に笑っていた。
本当は病院の入り口だけど、それに意味なんかないだろう。
「立川くんの良心には迷惑をかけているわね」
あれを受け取ったのは、良心だからなのか。
「ありがとうね、色々話してくれて。こんなしゃしゃり出るおばさんに」
「いえ、それは構わないんですけど」
「立川くんも、聞きたいことがあるのよね」
「……七香って、なんなんですか」
「なんなのかっていうと、秋葉××の娘、15歳、高校は最近やめたってところだけど、そういうことは聞いてないよね」
「なんで、贖罪なんかしようとしているんですか」
「まあ、父親を愛しているのよ。あんなのを。いや、あんなのだからなのかもしれないけど」
「あんなことまでしてるのに?」
「だからこそ、余計に支えないといけないって」
中野さんは、コーヒーを一気に飲み干した。
熱くないのだろうか。
「変に真面目な子だから、またいつか、幸せな家族に戻るために、必要だと思っているのよ。許しが」
「――無理でしょ」
コーラを飲んだら、空になった。
中野さんは、3杯目のコーヒーを頼んだ。
コーヒーがくるまで、しばらくした。
「――立川くんは、七香にこれ以上付き纏われたくないのよね」
新たなカップを口にしながら、聞いてきた。
「……はい」
「方法があるの。ただ、申し訳ないけど、立川くんには協力してもらわないといけないの」
「協力、なにを」
「これをあげる」
中野さんが出してきたのは、通帳、ハンコ、キャッシュカード。
とっても不穏な三種のブツだ。
「なんですか、これ」
「今度七香が現れたら、中身を見せなさい」
試しに通帳を開いてみる。
いくつもの記録があるが、額の動き方が子供の想像できるものを優に超えていた。
そして、最後に載っていたのは――
「な、なんですか、これ!?」
「ふふ、さっきの札束、100個以上あるでしょ」
不敵に笑ってきた。
「こ、こんなもの、お借りるするわけにもいかないでしょ!」
「貸すんじゃないの。あげるの。それぐらいあると知れば、自分の金稼ぎも無駄だって、七香も折れるでしょうから」
「い、いやいや、いくらなんでもおかしいですよ、これは」
「いいのよ、元々七香のために使う予定のものだったし。あなた達のためにもなって、一石二鳥でしょ」
右腕をブルドーザーに。
グラスの水滴で濡れているというのに、通帳もハンコもカードも、テーブルの俺の方に押し寄せられた。
「――立川くんには、申し訳ないね。七香のため、なんかに動いてもらうなんて」
「……本当に、それで七香は来なくなるんですか」
「多分ね。金が手段で使えないと分かれば、あの子の頭じゃそれ以上は考えつかないだろうし、私を頼るほかないのよ。そうしたら、後は私が言いくるめて止める」
「――それって、初めから中野さんが言いくるめればよくないですか」
「嫌われているの、あの子に。私から近づいても話なんて聞いてくれない」
「……よく、嫌われますね」
「いいのよ、最後にあの子が幸せなら」
また、コーヒーを飲んでいるし。
「ああそれと、だから、通帳を見せるときは、私のことは言わないで。私から受け取ったなんて知ったら、私に頼るわけなくなるから」
「――分かりました。でも、流石に、こんな金額は受け取るわけにはいきません。七香を騙すのだけに使いませんか」
「いいのよ、いいの。あげるあげる。手続きとかは、ちゃんと大人がやっておくし、気にしないで」
「保険は、効いてますよ」
「多いよりマシなことはないでしょ」
「そっくりそのお言葉、お返しします」
「私はこれから老いていくだけ。頑張るのは若者。それに、これは私のしなければいけないことだから」
中野さんは、荷物をまとめて立ち上がった。
最後のコーヒーは、少しだけ残っていた。
「――私が、誰だって話だけど。七香の血の繋がった母親よ。流石に気づいていたよね」
コーラの入っていたグラスは、残った氷が融けて。
「離婚は随分と前にしたけどね」
少し残った、薄いコーラを、ズズーと吸った。
「親権は、私にあったはずなのに。七香は、あいつの方に勝手に行ってしまった。私が家族を壊したと思い込んで。でも、私は、あの子の意思を優先させてしまった」
店主が来て、中野さんは、会計を済ませていく。
俺も、なにも言わずに、もらったものをしまうことにした。
「私があんな奴、殺しておけば、こんなことにならなかったのよ」
中野さんは、去っていった。
※
外に出ると、雨は一段と強くなっていた。
傘は変わらず、雨を弾く。
赤は変わらず、赤のまま。
そのまま優希のところへ行こうかとも考えて、時間も早かったから、電車を使わず歩くことにした。
歩きたかっただけかもしれない。
靴もズボンも濡れていくが、あまり気にならなかった。
水溜りに、勢いよく足を踏み入れる。
いつしか、道も分からないところにたどり着いていた。
どこにでもあるような通りだった。
それでも歩き続ける。
ただ、いい加減空腹にもなってきたので、それらしくあったコンビニにでも入った。
「いらっしゃ――」
そして、そいつは、秋葉七香はいた。
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