第10話_回想

 ふつふつと小鍋に入った水が沸いていく。

 国立先輩は鍋の様子を見ながら、コンロの火を調整する。その傍らには、すでに何個か中身が無くなった卵のパックが置いてあった。

「ゆうちゃん、何個食べる?」

「1個で」

「ええ、1個? それじゃあ、全然余っちゃうよ」

 白い卵が2個、静かに鍋の中に入る。

「ゆで卵なんて、そんな何個も食べるものでもなくないですか?」

「でも、残りは全部捨てちゃうんだよ。もったいなくない?」

「無理に食べてお腹壊しても」

「まあ、それもそっか」

 国立先輩は、椅子に座りながらじっと鍋の様子を伺う。

 そんなに見張ることもないと思ったが、作ってくれていることに文句をつけるのも躊躇われる。

 俺も近くの椅子に座り、バッグから取り出したノートを眺めることにした。今まで描いてきたデザイン画がまとめられたものだった。

 ――今日の部活は、調理場のある家庭科室にいた。日野先生から調理実習で余った卵を貰い受け、それをただ食べるだけ。

 秋口の空気に、コンロの火は少しだけ暖かかった。

「ゆうちゃん、ほんとすごいね。そんないろいろ考えているなんて」

 国立先輩は、そそっと椅子を引きずって近寄ると、手元のノートを覗いてきた。

「こんなのただの落書きですよ」

「ええ、こんなにちゃんと描いてあるのに?」

「それは手癖みたいなものです。何個も描いていけば、そうなりますよ。先輩も描いてみればどうですか?」

「私はまだまだ」

 軽く微笑むと同時に、首を振ってきた。

「作る方ですら、まだまだゆうちゃんの足元にも及ばないのに」

「それは関係ないですよ。そもそも俺の始まりは、むしろこっちなんですから」

 ぽんぽんとノートを叩いた。

「え、そうなの?」

「そうですよ。ノートにこうやって落書きしてきたものを、作りたいなあ、と思ったのが始まりです」

「へえ。でも、私の作りたいもの、かあ。なんだろうなあ」

 国立先輩は、首を捻った。

「なんでもいいと思いますよ。それこそ、小物やバッグ、ぬいぐるみでも。ここは手芸部なんですから」

 グツグツと、卵は茹っていく。

「――ゆうちゃんがどんなか、見ていい?」

 今更ノートを律儀に指してきた。

「いいですよ」

 ノートを畳んで、国立先輩に手渡す。

 先輩は、そのノートを素直には開かなかった。

「折角なら、二人で見ない? ゆうちゃんが見ていたのを奪うのも、ちょっとアレだし」

「じゃあ、一緒見ましょうか」

 二人、肩が触れ合う程度まで横に並び、広げたノートの端を互いに持ち合う。

 国立先輩は、最初のページからじっくりと眺めていく。俺はというと、元々暇潰し程度に広げ始めたものだから、パラパラほんのりと目をやるだけだった。

 それこそ、わざわざこんなことしてまで二人で見るまでもなかったのだが、かといって他にやることもなかったから、先輩の提案を受け入れていた、のだが。

 国立先輩の食い入るような目つきを見ると、本当に、当人にとっては落書き程度のものなので、無茶苦茶にこそばゆい。

「あ、これ、すごく可愛い」

 国立先輩は、なんてことないページで手を止めた。自分もいつ描いたか覚えていないような箇所だった。

「どこが、ですか?」

 覚えていないということは、あまり納得したものでもないだろうし、正直今見てもイマイチなものだった。

「え、もしかして、可愛くないの、これ?」

「いや、そういうつもりじゃなくて。あまりこのノート自体は他の人にほとんど見せたことないので。なんでかなあって、気になって」

「そうなの? ゆうくんとかは見たことないの?」

「見ないですよ、優希は。興味ないですし。材料集めるために母親とか店員さんに見せたことがあるくらいで」

「――そうなんだ」

 国立先輩は、またじっくりとそのページを見尽くす。そして、笑顔でまた顔をあげて、

「うん、私は、すごくいいと思うよ!」

 ――ゆで卵は、何時ごろできるのだろうか。

 国立先輩は、ずっとノートを見続けて、俺はずっともぞもぞしていた。

 校庭の方からは、運動部の掛け声が聞こえてきた。

 やがて、卵も茹で上がる。

 鍋のお湯は捨てられる。

 無造作にむかれた殻が、用意した袋に集まる。

 パサパサの黄身に、まぶした塩っけだけが口の中にあった。

 ぱくぱくと、二人静かに食べていた。

「あー、いたいた。お前ら」

 いつしか、普段は顔なんか見せない日野先生がやってきていた。

「あれ、どうしたんですか?」

 先輩も驚いたように応えた。

「いや、学校内に迷い込んだ小学生がいて。なんでも、お前らを探していたみたいだから」

「小学生が、私たちを?」

「ああ、だから、頼んだぞ」

 日野先生の後ろから、水色のランドセルを背負った女の子が顔を覗かせた。小学生の割には、俺ともそんなに変わらないほど身長が高かった。

 その特徴的な姿に見覚えがなかったから、国立先輩の方を向いてみた。しかし、先輩も不思議そうに俺を見つめたあたり、同じなのだろう。

「ええっと、頼むって?」

「面倒を頼む。お守りを頼む。適当に頼む。あと、今日は帰る時報告しといてくれ。ガスをやりっぱは流石にまずいし」

 日野先生は、それだけ言って、家庭科室から去っていた。女の子は、一人残されている。

 さて、名も知らぬ女の子をどうしますか?――と、悩ましい視線を送る前に、国立先輩はすっとその子に近づいていた。

「どうしたの、私たちに用事って?」

 優しい笑顔と共に、女の子に向いた。

「あたし、神田真奈って言います!」

 随分と大きな声で、神田真奈と女の子は名乗った。

「そう、真奈ちゃんっていうの。私は国立瑞穂。ゆうちゃんのお友達かな?」

「いえ、いきなり来ました」

「いきなり? 何かあったの?」

「はい、これです!」

 神田真奈は、くちゃくちゃになった一枚の写真をポケットから取り出し、広げて見せた。

「このドレス、探しているんです」

 そこには、ドレスを着込んだ誰かが写っていた。

「友達と一緒にここの文化祭に来たら、たまたま見かけて。それが、すごく、すごく、どどーんと、すごかったんです!」

 神田真奈は、乱れる息づかいで興奮しながら語る。

「あの日は遠目でしか見れなくて、でも、もっともっと見たくて、写真だけじゃ物足りなくて、それで、ここまで来ちゃいました」

 ――その一枚には、見覚えしかなかった。

 俺が、文化祭のために作成したドレスだ。

 優希がクラスの出し物で着るからって、部としての実績作りも兼ねて、俺がデザインして、手芸部として二人で制作したものだった。

 そして、記憶からも、記録からも、全て排除しなければならない歴史だった。

「作成したのが、手芸部さんって、聞いたんです。あの、いきなり、押しかけてすいませんけど、もう一度見せてくれませんか!」

 なにせ、そこに写る被写体の人間、それはまさしく、ドレスを着た俺自身だからだ!

 決して、大会前日だからって文化祭をサボった優希が写っているわけではない。

 優希が写っていたのなら、俺だって自信作を作れたと手放しで喜べたというのに。

 なんで、こんな、あまりにもグロテスク極まりない光景ができてしまったのか!

 ――まあ、幸いなのは、あまりにも女装のために化けすぎて、もはやここにいる俺とは姿形がかけ離れていることか。

 調子に乗って化粧を施してきた国立先輩には、感謝していいのやら恨んだらいいのやら。

「ああ、それなら――」

 俺は、何か滑らせそうになる前に、国立先輩の口を手で塞いだ。

「真奈ちゃん、だよね」

「はい、神田真奈です」

「ゆで卵、食べる?」

「ゆで卵、いいんですか!」

「いいよ、2個でも、3個でも」

「やった! 食べます、食べます!」

 鍋のお湯は、また沸き始める。

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