第9話
宵闇の時間。意識することもできず、身体は家のベッドの上にいた。
制服もそのまま、皺だらけになっていく。だが、立ち上がる気力も起きない。何をする気にもなれない。
また、あの女は来るのか。俺が許してしまったのだから、どうせ来るだろう。
「……なにが目的なんだよ」
贖罪、のつもりなのだろうか。
そもそも、贖罪ってなんだ。
犯した罪償うこと。
償う、というのは、罪の埋め合わせ。
できるわけもない。
できるわけもないことを、なぜあいつはしようとしている。
しかも、それは、自分のものでもなく、親のものだろう。
――いや、そもそも、あいつは子を騙っただけで、赤の他人の可能性だってある。
でも、なんのために。それもまた分からない。
――赤の他人のほうが、まだいいのかもしれない。
解答のない思考だけが巡って、やがて眠り、また起きて、現実が戻ってくる。
朝を迎えている。学校には行かないといけない。だが、食事もろくに取れていないし、家のことも何もできていない。
『ひひひひ、いいじゃねえか、そのまま寝続けてしまえば』
言われるまでもなく、このまま寝ている場合ではない。理屈などなく、立ち上がり、また毎日のルーティンを繰り返さなければならない。
足取りは重く、手は硬い。
何かしら、根底を支えてきた部分が抜けてしまっている。
何が抜けたのかは、見出せていない。
また、自問に戻る。
あの女のことだけが思考を埋め尽くし続ける。
俺の平静は消える。しかし、無意識に体は日常の上を動いていく。
再び意識が覚醒した頃には、既に身体は学校にいた。記憶はあるが、自分のものとは思えない。
国立先輩といろいろあった昨日の今日の学校。変な噂だって聞こえてくる。でも、それがなんとも気にかからない。
授業のノートは完璧に取れている。にもかかわらず、その内容は全く頭に入っていない。
身体はきついのに、不可解なほど疲れはない。
ただ、一つだけ。
放課後が恐ろしかった。
また、あの女が目の前に現れるのが堪え難かった。
いないかもしれない、という想像すら恐ろしい。
俺の身体は、そこで止まってしまった。
無為にこれまでの授業のノートを見直していた。
『そうだ、止まれ。なすすべなく』
止まっているんじゃない。動かせないんだ。
どうしようもない。何もしようもない。
時間が解決しない。時間は無限に過ぎる。
なら、どうする?
『何も考えなければいい。空っぽになって、その底にあるものを見てみろよ』
下を向けっていうのか。
「ほら、行くよ」
上を向くと、カバンを持ったマリアがいた。
「行きたくても、行けないんですよ」
「ゆうちゃん、また脳みそ減った? ゆうちゃんの意思は関係ないよ」
マリアはまた腕がもげるような強さで俺を立ちあげる。
そこでようやく気づいた。マリアは別に俺を病院に連れて行くわけない。また、自分勝手な都合で俺を連れまわそうとしているんだ。
「どこに行くんですかって、教えてくれないですよね」
抵抗するとどうなるか知っているから、ただ従うしかなかった。――かはもうよく分からない。
「いいよ、教えてあげる」
「……え、なんでですか」
「ゆうちゃんには、大立ち回りをしてもらうから」
「大立ち回り?」
「これから中野さんの家に行く。あとは着いたら話すから」
マリアは俺を引きずってでも、前に進もうとしていた。
※
学校から二駅ほど――病院とは逆方向に離れた駅の近く。中野と表札が掲げられいる、一目で豪邸と言えてしまう家がそこにあった。
「ここ、マリア先輩の実家ですか」
国立先輩いわく、マリアは自称で、本名は中野綾子というのは、まだ記憶にあった。
「私はここには住んでないよ」
「一人暮らししているんですか?」
「――うん、そうだね。ここは私の家じゃない。実家じゃない。赤の他人の家」
珍しく、マリアが言い淀んでいる気がした。
「それで、赤の他人の家に何しにきたんですか」
「私が家に入るから、その間、ここで見張っていて。誰か来たら、追い返して」
「なんですか、泥棒でもするんですか」
「そうだよ」
「……はい?」
「大丈夫。分け前はちゃんとあるから」
マリアはそう言って、玄関から入っていってしまった。
「いやいや、それじゃあ、共犯じゃないですか」
俺も追いかけようとしたが、玄関は開かなかった。既に鍵がかかっているようだ。
「……マジで?」
玄関前で立ち尽くし、ポッとこぼれた。
イカれているとは思っていたが、ここまでだったとは。巻き込まれる前に、逃げるしかないか。
――しかし、ここまでイカれているマリアの言いつけを破って逃げたりしても、それはそれで何が起こるか分からない。わがままで腕の一本は軽くもらおうとする狂気の持ち主だ。
しかたもなく、分からないから、玄関前で待つことにした。
人の通りはやや寂しいが少しはある。ただ、少し視線を感じても、堂々としていれば、それ以上のことは起こされはしない。
一人、二人すぎて行って、なんとなく慣れた気もしてくる。ほら、今もこうやって、スーツ姿で白髪混じりの中年の男が、俺の目の前を通り過ぎて
「何をしているんだ、私の家の前で」
無理だった。終わりだ。窃盗の共犯で豚箱行きだ。
「――ああ、その制服、娘と同じ学校か。友達か何かかな」
勝手に勘違いしてくれた。
「え、あ、はい。そうです。ちょっとここで待っててくれって言われて」
藁にもすがる思いで、俺は続けていた。
「ということは、今、娘は家にいるんだね」
中年の男は、大きなため息をついた。
「分かった。私はしばらく外を歩く。娘がいなくなったら、教えてくれ」
そして、小さな背中を見せて、どこかへ行ってしまった。どこに行くのかも、連絡先も伝えず、どうやって娘がいなくなったか教えるのかもわからず。
――助かったのだが、少し気になる。
俺と同じ学校で、中野という名字の娘がいる。そんな家にマリア――中野綾子は窃盗に入った。
「……聞いても教えてくれないよな」
正解が分からない問題を解いてもしょうがない。そんな妄想をしていて怪しまれたらたまったもんじゃない。今は、無心に堂々とここに居座っていればいい。そうすれば、また若造の派手な女性が目の前を過ぎて行って
「何してんの、私の家の前で」
だめだった。猶予もなかった。だが、先ほどの学習したことがある。
「あ、中野さんにここで待っていてって言われて」
この家の娘の友達とごまかせば、時間は稼げる。もしかしたら、さっきの男みたいに、勝手にどこかへ行ってくれるかもしれない。
「綾子の友達ねえ」
――リョウコって、マリアと同じだ。多分、偶然ではない。事実をそのまま整理すれば、きっとマリアの実家はここなんだ。
でも、それが妙に信じられなかった。
「は、はい。綾子さんの友達です」
動揺しているのか、ただの反芻も言葉が震えている。
「で、綾子は今、家にいるの?」
「は、はい」
俺が頷くと、目の前の女は、手を振り上げると、勢いよく振り下ろして俺の頬を叩いてきた。
「……え?」
いきなりのことだった。不意をつかれた。
その隙に、女は俺のポケットに手を入れてくる。混乱した俺は、何かすることもできず、そこから財布を抜き出されるのを許してしまった。
「ちょ、ちょっと、何するんですか」
詰め寄ろうとすると、また頬に一撃を食らった
「どうせ、また、家のもの取りに来たんでしょ。この前は鉢合わせたから、今度は見張りを立てました、っと」
「と、取りに来たって」
「ああ、なんだ、あなたは何も知らずにやらされての。まあ、共犯は共犯だから、二人揃って、警察にお世話になってもらいなさい」
女は俺に取り付く暇も与えず、どんどんと話を進んでいく。
「や、やめてください!」
また、一発。
そして女は、俺の財布から、学生証を引っ張り出した。無論、そこには俺の名前も顔写真も綺麗に写っている。つまり、もう逃げたところで何も意味がないということだった。
「ええっと、なになに。立川、優理――」
だが、女の動きはそこで止まった。俺が詰め寄っても、学生証と財布をその手から取り返しても、何もなかった。ただ、俺の方を驚いて見ていた。
「貴方、立川優理なの」
頷かない。だが、妙にその言葉は震えている。
「ゆうちゃん、ご苦労様」
ちょうどその時、マリアは玄関から出てきた。大きなカバンを背負っている。本当に、宣言通りこの家から盗めるものを全て盗んだのだろうか。
「行こう」
マリアは短く告げ、女を一瞥することなく、俺の手を取って去ろうとした。
「待って!」
女は叫んだ。
マリアは立ち止まった。
「もう必要なものは回収したので、もう来ませんよ」
マリアはまた、動き出す。
「あんたじゃない!」
「は?」
マリアは怒気混じりに振り返る。俺も釣られて振り返る。
女は、俺の手に何かを握らせてきた。
「七香のことで何かあったら、ここに連絡して」
――七香。ああ、そうだ。思い出したくもない、あの女の名前だ。だが、どうしてこの人があの押し掛けてきた女の名前を?
「ねえ、優理」
マリアがそっと言ってきた。
ふと、鮮明なマリアの素顔が視界に入った。
「行こう」
マリアが言った。
ただ足早に、中野家から離れていった。
俺の手の中には、『中野夏代』の名刺が握られていた。
※
「はい、分け前」
帰りの道中、公衆の面前、躊躇なく、マリアは札束を一つ、手渡してきた。
分からないが、多分、100万円、ぐらいか?
「いや、いやいやいや!」
ようやく、俺は事態の深刻さに気が付かさられた。学生が遊び半分でやるようなものはとうに超えている。それを、なんてことなくマリアはグイグイと押し付ける。
「無理です、こんなもの受け取れるわけないでしょ!」
「もらわなきゃ、殺すよ」
「はい?」
「殺すって言ってんの」
マリアは、札束の持たない手を、俺の首元に手を伸ばして。
あっけなく、俺の体は宙に浮いて――
「受け取る? 死ぬ? あの女からは受け取って、私からは受け取らない?」
「――」
「うん、じゃあ、はい」
――気づいたら、両手に札束があった。意識は本当にほとんどなかったが、首を縦に振った気はする。
咳き込みながら、マリアを見ると、じっと札束と俺を見比べていた。
俺は、ただただ札束を懐にしまった。
「うん、バイバイ」
マリアは去る。
ただ怒りを俺にぶつけるだけぶつけて。
「――怒っていた?」
言葉で呟き、違和感に気づく。
なんで、怒っていたのかは分からない。
でも、分からないはずのマリアが怒っていたというというのは、どこか確信があった。
――まあ、今はそんなことより、この札束か。
それにしたって、札束って重いんだな。
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