第7話

 放課後だ。

 チャイムなど聞く必要もなく、荷物をまとめる。

 教室に自分の居場所は感じなかった。優希を待たせるのも忍びない。本当は遅れた授業の分を取り戻してから行くべきなのかもしれないが、俺はもう教室を飛び出していた。

 ――その足取りもすぐに止まる。教室を出た近く、その少し先に、国立先輩の影があった。はるかに先に先回り。今朝のことなんか忘れたように――きっと忘れていないだろうけど、無骨にただ俺を待っていた。

 しかし、気づいたのは俺だけ。それは幸い。わざわざ遠回りして帰ればいいだけだった。

『おいおい、なんだよ、逃げるのかよ』

 その時、国立先輩のくれた人形――神様は現れ始めた。

『今朝に続いてまた、国立瑞穂を泣かせるのか』

「別に、今朝は泣いていないだろ」

『何言ってんだ。間違いなく泣いていただろ。それぐらい、立川優理なら分かるはずだ。お前は別に察しが悪い方ではないし、何より国立瑞穂と長い付き合いだ』

「長いって、何が分かるんだよ」

『分かるさ。お前がまた出会った頃と同じように、しなくていい遠回りで逃げようとしていることぐらいな』

 ――俺でさえ忘れかけていたことだった。

『どうして知っているかって、そんなもん、俺様が神様だからだよ』

 奇妙な存在だ。握り潰したくなるほど不愉快な神様だ。

「――ゆうちゃん」

 そして、そんな言葉に惑わされ、国立先輩は俺を見つけてしまった。

 どんな顔をしていいかは分からない。でも、流石にここからもう一度逃げることもできなかった。だけど、目を合わせることもできなかった。

 国立先輩も、俺の前まで来たものの、それ以上は何もなかった。何も言わず――言えないのか、ただいるだけだった。

 時間だけが過ぎていく、気がする。それすらもよく分からない。

『あーあ、また泣かせちまったよ』

 神様がそう言った。すっと国立先輩を見たときには、ずっと俺に視線を向けることもできずに、斜め下を向き続け、止めることもなく一人で涙を流していた。

「国立先輩」

 何か言うとしたが、それしか言えなかった。そんな言葉では、振り向いてくれもしない。事態は何も進展しない。

『おいおい、そのまま放置か? 全く女々しくてしょうがねえなあ』

 自覚はある。だから反骨のしようもない。でも、だからこそ、どうにかしなければならないというのに。

「ごめんなさい」

 いつしか、ようやく自分の口から出てきたのは、そんな一言だった。意味の分からない言葉だ。謝る気もないくせに。そう言っとけばいいとでも思っているのか。

「なんで、ゆうちゃんが謝るの」

 でも、国立先輩は振り向いてくれた。涙をたっぷり流した素顔で。

 ――すぐに、先輩は目を見開いた。それが驚いている顔だって分かる間も無く、先輩は俺の手を取って、足早に連れ出していった。

 一体なにがしたいのか、でも先輩に流されるまま、俺は何も考えずにすみ、少しだけ穏やかだった。

 たどり着いた生徒会室。

 国立先輩と二人だけだった。

「こっちむいて」

 少しだけ背の高い俺は、言われるがまま下向きに。

 先輩は懐から取り出したハンカチで、俺の顔を拭き始めた。さっきよりひどい顔で、もっと泣きながら。

「なに、してるんですか、先輩」

「なにって、拭いてるの」

「拭いてるって、何を?」

「――ゆうちゃん、気付いてないの?」

 そう言われて、顔にケチャップでも付いてるのかと擦ってみた。確かに濡れていたが、赤くもなければ、透明だった。

「ゆうちゃん、泣いてる」

「……ああ」

 なんとも情けない限りだ。学園の廊下、そのど真ん中、悶々と悩む男が、たらたらと涙を流していたなんて。

 慕っている先輩を泣かせてしまったというだけなのに。

 いや、そう考えると、泣いて当然のかもしれない。国立先輩はもっと泣いていたんだし。

 ――でも、その涙が涸れるのが分かるくらい、俺は笑い出していた。

「え、どうしたの、ゆうちゃん」

 困惑する先輩。

「それ、貸してください」

「あ、え、うん」

 先輩から差し出されたハンカチを奪って、そのまま先輩の顔に押しつけた。

「あ、っぷ、な、ななななに」

 うまく話せていないのも気にしない。どんどん出て来る涙を、笑って、笑いながら、いくらでも拭き取った。

「ちょ、ちょっとストップ!」

 ノリに乗って拭きまくっていたのだが、ハンカチはまた先輩に奪い返されてしまった。

「な、なにするの、ゆうちゃん」

「やっぱり、気付いてないんですね」

「え? なにが?」

 いっぱい拭き取った涙でも、まだ少し残っていた。それでも気付かないのは、もしかしなくても、俺の所為だろうけど。

「俺は、もらい泣きなだけですよ」

 それだけ言うと、先輩も自分の顔を拭って、最後の涙をなくし、事態に気付いてくれた。

 でも、先輩は少し怒った様子で。

「いつから気付いていたのぉ、ゆうちゃーん」

「先輩は、俺が泣いているのに気付いたの、俺が謝った後ですよね」

「そうだけどぉ」

「なら、やっぱり俺がもらい泣きです」

 俺はまた笑ってしまった。

 先輩は少し沈んでしまったけど。

「うう、結構いたよね、みんな」

「いましたね」

「そんなところで泣いていたなんて」

「たぶん、俺より泣いてましたよ」

「うそうそ! だって、ゆうちゃん、いっぱい泣いてたよ」

「先輩は、いっぱいいっぱい泣いていただけです」

 俺はまた笑って、先輩は恥ずかしそうにして。

 すぐに、先輩も笑い出した。

 どれくらい経ったか分からないけど、ひとしきり笑った。

「ごめんね、情けない先輩で」

 ふと、先輩は言った。

「先輩はいつだって情けないじゃないですか。そのくせ向こう見ずで、とりあえずやる気だけ出して、でもその後すぐにあたふたしちゃう」

「うう、返す言葉もない」

「まあ、俺も、情けないですけど」

「え、そうかな」

「そうでしょ」

「ゆうちゃんは、意地っ張りなだけでしょ、すっごく。最初っからずっと」

「……返す言葉もありません」

「でも、私も少しだけ見習おうかな」

 まだ繋がっていた手を、先輩は強く引っ張った。

「――もらい泣きなら、私が悲しいとゆうちゃんも悲しい。つまり私が嬉しいことをしたら、ゆうちゃんも嬉しくなるって事だよね」

 握り続けていた手は、痛いほど結ばれていた。


 *


 生徒会室を離れても、国立先輩との距離感は変わらなかった。当然、手も繋ぎっぱなし。

「先輩」

「なに、ゆうちゃん」

「手、離しませんか」

「やだ」

「やだじゃなくて」

「だって、離したら逃げるでしょ」

 たぶん、そうする。でも、いくら強く握ったって、強くふれば、それは解ける。追いかけられても、先輩から逃げ出す事なんて簡単だった。

「だから、離さないの」

 下校時間が過ぎた校舎に、残る生徒はあまりいない。

 でも、もちろん全ての生徒がいないわけでもない。誰かとすれ違うたび、先輩は顔を赤くして、また誰かとすれ違うと、もっと顔を赤くして。先生を見かけようものなら、意味もなく俺の手相を見始めてしまう。

「先輩、辞めた方が身のためじゃ……」

「い、いいのいいの! ここここれは別にそういうのじゃないし! はははずかしくなんて、ななないいかから」

 ろれつもおかしい。そろそろ限界なんじゃないか。

「そ、そもそもそも、ゆうちゃんはなんでそんな平然としていられるの!」

「いや、俺、友達いないですし。赤の他人に見られても」

 恥ずかしくないとは言っていない。

「そんな悲しい告白!」

「だから、存分に先輩だけ恥じてください」

「羞恥プレイ!?」

「先輩、そんな卑猥なこと言わないでください。公衆の面前ですよ」

「ご、ごめんなさい」

 それで少し大人しくなっても、手から伝わる鼓動の大きさは隠しきれていなかった。

「それにしても、先輩って、背伸びましたよね」

 流石にいじめ過ぎたと思い、分かりやすく先輩が喜びそうな話題を振ってみた。

「えへへ、そうでしょ。高校生になって、また結構伸びたんだよね」

 先輩は背伸びをして胸を張った。

「でも、ゆうちゃんも、すごく伸びてるよね。平均より高いでしょ」

「ちょい高いぐらいですよ。前が小さ過ぎただけです」

「あはは、そういえば、二人揃って、小さかったもんね」

「真奈が入ってからは、ボコデコボコになりましたけどね」

「真奈ちゃん、1年生の頃から大きかったもんね。でも、流石にゆうちゃんより大きかったことはないんじゃない?」

「まあ、そうですけど。でも、一回抜かれてましたよ。先輩が卒業した後に」

「え、うそ! 見たかったなあ」

「見れたもんじゃありませんよ」

「今はどうなの?」

「俺の方が高いと思いますけど、最近会ってないんで」

「真奈ちゃん、忙しいの?」

「と思いますよ。学校の融通つけたいからって、そういうことができる学校に転校するらしいですし」

「――え、なにそれ。私、そんなの知らない」

「俺も全部決まってから、教えてもらいましたよ。多分、本人なりの本気の決意表明なんでしょう」

「そうなんだ――それじゃあ、また3人で手芸部って、難しいのかな」

 先輩は、少し寂しそうに言った。

「そうかも、しれませんね」

 俺は、少し言い淀んで答えるほかなかった。

「だから、一緒に頑張ろうね」

 先輩は、また強く手を握ってきた。

 それがいつまで続くのか。

 夕暮れの中、二人で、病院に向かって行く。


 ※


 国立先輩は、病室の前でようやくその手を外してくれた。

 手汗でびっしょりだった。

 病室では優希が待っていた。

「あれ、国立先輩?」

「こんばんは、ゆうくん」

 優希は俺の方を見て、

「どうして国立先輩が?」

「ちょっと俺の方が追いつけなくなってきたから、代打」

「ふーん」

 優希は先輩に向き直った。

 二人は慎ましく講義を始めていった。

 俺は病室の隅で自習に励む。

 先輩には帰って休めと言われたが、流石に毎日こんなことを続けさせるわけにもいかないから、少しでも昨日までの遅れを挽回するのに回した。

『あーあ、つまんねえなあ。しょうもないこと続けて』

 神様は喋り出した。

『筆談でいいから、なにか話せよ』

 俺はノートの端に書く。

 ――黙れ

『はあ、ことあるごとに俺様を否定して。俺様は神様なんだぞ。もっと敬えよ』

 ――黙れ

『本当に、信仰が足りんなあ』

 ――するリユーがない

『ほう。まあ確かに、まだ俺様の恩恵を立川優理は受けてないな。真面目に俺様のいうことを聞かないせいだが』

 ――きくわけないだろ

『だから、今、神の偉大さを教えてやる』

 ――ははー、恐れいたしました。

 違う、俺ではない。勝手に指が動いて、その数字の羅列はノートに記された。

『うんうん、正直ものだ。そうやって俺様を敬いなさい』

 俺は、シャーペンを床に叩きつけていた。

「どしたの、優理」

 優希と立川先輩は、二人揃って不思議そうにこちらを伺ってきた。

「なんでも、ない。ちょっと、外に出てくる」

 神様に体を操られたなんて言えるわけもなく、不振がる二人に対し、俺は逃げるように病室を出るしかなかった。


 ※


 病室から出ると、その向かいにじっと立ち尽くす女性の人影があった。

 その姿はスーツに身を包んでいたため、少し年上のようも感じるところであったが、表情はとても幼げで、何かにおびえている様子でもあった。

 勢いよく飛び出した俺は、ばったりと彼女と目が合ってしまって、少し愛想良く笑うしかできなかった。

「あの、大丈夫でしたか」

 すると、その女性からいきなり声をかけられた。だが、その声に聞き覚えがある。

 だから、愛想笑いもほどほどに、俺から近づいた。

「えっと、一昨日の方ですよね。ありがとうございました。俺――自分を助けてくれて」

 意識の遠のく中、聞いた声は、間違いなく彼女のものだった。

「いえ、そんな、私は――」

「あの、もしかして、優希の友達か何かですか?」

「そ、そんなんじゃないです。そんなんじゃないですけど。ただ――」

 彼女は黙った。なぜそこで黙ったのか。ずっと顔色が悪いから、体調が何か悪いのかもしれない。

「ただ、立川優希さんのお見舞いをしなければならなくて」

 なにか、おかしな言い方だ。

「そう、ですか。ちょっと遅いですけど、今からなら少しぐらいお話しできると思いますよ」

 俺は優希の病室に導くよう退いた。ただ、彼女は何も動かない。

『帰れ、立川優理。こいつと関わってもいいことはない』

 神様は言ってきた。当然のように、彼女にはそれは聞こえていないようだった。

「あ、俺は、立川優理。立川優希の双子の弟です」

 神様の一言で、俺が名乗っていないことに気づいた。もしかしたら、俺が誰だか分かっていなかったから、俺に不振がって、こんな風になっていたのかもしれない。

 ただ、その考えとは裏腹に、彼女はそれを聞いて、またおびえのような驚きを見せた。

「……申し訳、ありません」

 なんで、謝る?

 そのまま、彼女は目線を合わせることなく、動くこともなく、黙り続けた。

 俺もまた、そこから動けなくなって、また、動いてはいけない気がした。

 その静寂が、一体いつまで続いたものか。

 時間にしてみれば、1分も満たないものであるだろうけど。

「立川――優理さん。私は……」

 意を決したように、彼女は俺の目をとらえ、話し始めた。

「はい、なんですか」

 それに、応えた。

「私は、――です」

「はい?」

「私の名前は、――です」

「……はい?」

「秋葉、七香です」

「……はあ」

「私の父が、××です」

「――」

 俺は一体、どんな表情をしていたのだろうか。

 少なくとも、さきほどまで彼女の苦しそうな様子を心配していた、そんなものは消えてなくなっているのは確かであろう。

 父を殺され、母を殺され、夢の片割れを壊した、その忌むべき名など出されたのだから。

「――消えろ」

 神様が笑っている気がした。

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