第3話

 325号室。

 323号室の隣にある病室。日も傾き、見舞客などほとんど見受けられない中、俺はいつもと変わらずにそこへ向かう。

 扉の前。

 ノックを四回。少し待って、返事はなかったが、ゆっくりとそのドアを開いた。

「いらっしゃい、優理」

 ベッドの上で体を起こしていた優希が、それを見るなり迎え入れた。

「ごめん、ちょっと遅れて」

「別にいいけど。でも、優理が遅れるなんて珍しいね。何かあったの?」

「まあ、ちょっとね」

「え、なになに? 下駄箱にラブレターが入っていたとか?」

「そんなんじゃないよ、むしろ逆」

 愛の逆だろう、あれは。

「え、優理がラブレターを入れたってこと?」

「はいはい、それ以上は、これが終わってから」

「えー、気になるー」

「俺は優希の退院後が気になる」

「はーい。分かりました、優理先生」

 ベッドに備え付けられた机に、今日まとめたノートを広げる。優希もペンを持って、準備する。

「じゃ、とりあえず、歴史からやるか」

 俺が今日の授業の解説を始めると、優希もまともな表情になった。

 俺が話して、優希が聞く。

 こんなになるまで、優希も勉強はしない方だった。家で勉強していることなど見たこともなく。俺たち二人で赤点の補修を受けたこともあった。でも、今はこうしてくれている。

「ん、これ、どういう意味?」

「んー、ちょっとよく分からん。今度先生に聞いてみる」

「歴史だし、私が調べようか?」

「いや、いいよ。授業にどれだけついてこれるかが重要だから、先生に聞いた方がいい。それに、俺が分からないなら、クラスの全員が分からないだろうし、そんな優先度は高くない」

「へえ、自信家だね」

「それは結構に。天才かどうかはともかく、クラスの中で一番真面目に授業に取り組んでいるっていう自信はある」

「ほほう。まあ、私も、優理の講義は、一番真面目に聞いている自信はあるけどね」

「自信じゃなくて、それは事実だろ」

「一人しかいないからね」

 ――小話も混じりながら、1時間半で3教科。きっちりとまとめて教えていく。時間的には足りないが、それでも俺にできるのはそこが限界だった。あとは、優希の自習に任せるしかないが、今のところは、まあまあいい感じ。

「ところで、どうして、今日優理は来るのが遅かったの?」

 2教科も終わって、残り少しというところで、優希は聞いてきた。

「なんというか、変な人に絡まれたんだよ」

「変な人?」

 優希にはそれで伝わっていない。俺も言葉にするのも難しい。しょうがないから、事実だけ並べることにした。

「学校の生徒会会長。だけど、会長を辞めたくなって、でも、副会長はそれをあまり快く思っていなかったらしくて。それで、その会長は、俺を人質に使って、無理矢理生徒会を辞めた」

「人質? なんで優理が?」

「副会長は国立先輩だから」

「ああ、そういえばそうだったね。でも人質なんて、穏やかじゃないね」

「そこが本当におかしかったんだよ。俺の右手を折るとか言ったりして。そこまでして、会長なんてやめたいものなのかねえ」

「――きっとその人、将来有望な陸上選手だったのに、足が全然動かなくなっちゃったから、自暴自棄になって当たり散らしているだけだよ」

「……それは笑えなさすぎの冗談」

 あの人は、歩いていたし。

「あはは、私が笑えるからいいの」

 果たして、優希のその顔は、本当に笑っているのだろうか。

「ほら、再開するぞ、勉強」

「へーい」

 ――残り30分。それがなんだか、とても長く感じた。

「ま、今日はここまでだな」

 それでも、終わってみれば、ちゃんと30分で終わっていた。早くも、遅くもない。ちょうど時刻も七時半。

「はーい、お疲れ様でした」

「それにしても、今日はずいぶんと遅くなったな」

 窓の外は、もう既に暗闇で、月が輝いていた。

「そうだね。泊まっていけば?」

「それは無理。家のこともやらなきゃいけないし」

「おお、頑張るね。でも、ベッドはすぐそばにあるぞ」

 優希はわざとらしくベッドの方に手招いた。

「そういうわけにもいかない。父さんと母さんには、ちゃんと声をかけなきゃ」

「……大丈夫だって。それぐらい、父さんも母さんも許してくれるよ。私なんて、何日話をきいていないかもう数えるのも面倒なくらいだし」

 優希は笑って言った。

「ちゃんと優希の話もしてるよ、俺が代わってね」

「うん、ありがとね、優理」

「じゃ、おやすみ、優希」

「おやすみ」

 鞄を持って、325号室を後にした。

 ――気付かぬうちに、足下からは倒れ込んだ。

「あ、あれ」

 そんな言葉すら自然と漏れてしまうほど、自分でも何が起こったかは分からない。数時間前に経験した、押さえ込まれるような倒れ方でもない。だが、全身に力が入らない。無情に、身体は地面に沈んだ。

「だ、大丈夫ですか!?」

 最後に聞こえたのは、そんな誰かの声だった。

 意識はそこで消えた。


 *


 見慣れぬ天井。いや、そういうわけでもなかった。ここのところ、ほぼ毎日いる天井。だが、目覚めと同時にそれを見るのは、あまりない出来事であった。

「で、どうしてこんなところに」

 なぜ、自分が病院の一室にいるのか。

 記憶をたどると、すぐに答えは出てしまった。

 俺はあのとき倒れた。倒れて、病院で眠ってしまっていたんだ。その後誰かが、俺を空いている病室に入れたのか。

 そして、動いた視線の先、壁掛けの針時計は、ちょうど8時を指し示していた。

 たった30分という一瞬の安堵。だが、部屋は電気が付いていないのに妙に明るかった。

「……いやいや、そんな訳ないか。流石に、一晩は眠っちゃうかぁ」

 窓から朝日は射し込んでいる。しょうもない独り言も出る。気づけば、朝の8時になってしまっていた。

 だが、まだ間に合う。倒れてしまったのは大きな時間のロスだが、今から家に帰り、身支度をして、片付けをして、急げば日常のレールの上には復帰できる。少しの遅刻だが、ホームルームに顔を出せないぐらいだ。

 でも、突然病室の外からノックが4つ、鳴り響いた。

「はい、どうぞ」

「あ、ゆうちゃん。よかったぁ。無事に目を覚ましていて」

 こんな朝早くの病室にやってきたのは、看護師でも優希でもなく、とても親交のある赤の他人の国立先輩だった。

「国立先輩、どうして」

 どうして、俺が倒れていたことを知っている? 優希が来るのも、看護師が来るのも納得できるが。

「心配だったから。昨日、学校に来てなくて、先生に聞いたら、病院で倒れた、なんて聞いたんだから」

「昨日?」

「うん、昨日。もー、本当に心配したんだから」

 ――最悪だった。10時間よりもっとだ。何時間無駄にしたんだ。授業も、家事も、なに一つ手をつけられず、居眠りこいていただと。

「――ちょっと、ゆうちゃん、どこに行くの!?」

 ベッドから出て、足早に去ろうとすると、国立先輩は手を掴んで止めてきた。

「帰るんです。やらなきゃいけないことがたくさんあるので」

「だめ」

 国立先輩の言葉は、その握力は、弱いくせに、ただひたすらに強かった。

「ゆうちゃんは、過労で倒れたんだよ。それなのに、どうしてまだ動こうとするの」

「そんなの、やらなきゃいけないことがあるからですよ。俺がやらなくちゃいけないことが。優希が復学したとき、授業に遅れないようしなきゃいけない。誰もいない家を、俺が守らなきゃいけない」

「倒れてやれないくせに、何言ってるのよ」

 至極真っ当だった。国立先輩から出た言葉だった。

「でも、俺しかやれないんだから、倒れてでもやらなきゃいけないでしょ」

「私が手伝う。勉強だって、1年前の内容なら教えるのに苦はない。家事だって、炊事洗濯掃除なら、ゆうちゃんよりは全然うまくできるから」

「国立先輩だって、今は忙しいんでしょ。なら、そっちに専念してください」

「少なくとも、いきなり倒れて1日も寝込むほど忙しくはない」

「だとしても、これは俺と優希、二人の問題なんです」

 ――馬鹿らしかった。なんで、こんな言い争いをしているのか。先輩は、ただ俺を気遣って、心配してくれているだけだというのに。でも、どうして俺は言葉を止められなかったのか。

「……私には、分からないんだと思う。ゆうちゃんの気持ちなんて。一度に二人も家族を亡くして、残ったゆうくんは、傷ついて――でも、私は、ゆうちゃんにまで、なんて」

 結局、俺は国立先輩の掴んでいた手を、無理矢理解いた。

「……ごめんなさい、国立先輩。部活作る約束、守れなくて」

 振り返ることもできず、俺は病室を後にしていった。


『いやいや、戻れよ。そして、国立瑞穂に謝って、色々と協力してもらえばいいじゃねえか。いや、そんなことより、また部活を作れよ。今なら全然間に合うぞ』

 病室を出た直後だった。その声のような音――言葉が聞こえたのだから、それは声であるはずなのだが――が聞こえたのは。

『なーにきょろきょろしているんだよ。俺様はそんなところにはいねーよ』

 続いて響く声。どんなに回りを見渡したとて、朝方の病院の廊下には、人という人があまり見受けられなかった。

『はっは。どんくせーな。だから、そんな愚かな選択肢を平然と選んでしまうんだよ。立川優理は』

 しかし、その声がやむことはなかった。だから、意識を澄ました。それで、すぐにその声がほんの体のすぐ近く、というより、ポケットの携帯から響いているのに気付いた。

『ようやく気づいたか。まあ、気づいたところであれだがな』

 そして、その音が携帯などではなく、携帯についたぬいぐるみから聞こえることも。

「なんで、これが勝手に。先輩が勝手に、スピーカーでも仕込んだ?」

『そんなんじゃねえよ。国立瑞穂に、そんな技術力がある分けねえだろ。ただ、これが媒介として、一番しっくりきたもんでな』

「媒介?」

『そう、媒介。俺様がこの世界に具現するためのな』

「……何を言っているんだ。なんなんだ、お前は」

『そんなもの決まっているだろ』

「は?」

『俺様が、神様だ』

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