第2話
放課後になる。
俺は立ち上る。
迅速な下校。部活もおしゃべりも当然無し。それもまた入学からの日課となった行動。向かう方向は、歩いて通える自宅とは正反対。駅の方へ向かうのも、またその習慣。
だが、その校舎を抜ける前に、思わぬ邪魔が入った。
「ゆうちゃーん。」
俺の背中から、その声はした。
男の俺を、わざわざ「ちゃん」付けするのは、国立先輩の呼び方だった。だから、国立先輩がまた俺を気にかけに来たのかと、初めは思った。
だが、少し違和感。その声は、国立先輩とは何か違う。穏やかすぎるといか。国立先輩もどちらかといえばおとなしい声色だったが、これはそれよりも遙かに穏やか――むしろ、いきすぎて怠惰なものか。
――だから、それは国立先輩が俺を呼んでいるものではないだろうと。国立先輩が俺を呼んでいないとすれば、別の誰かが、また俺ではない他の誰かを呼ぶ声なのだろうと。
そう、決めつけた。
決めつけたから、そのまま振り向かずに、先を急ごうとした。
「どこ行くの、ゆうちゃん?」
だが、やはりその声は間違いなく俺自身を呼びかける声だったし、同時に肩に掛かった手によって、否応をなしに前へ進むのを阻んできた。
「……どなたですか」
振り向かない。関わりたくない意思を示すため。
わずかにスカートが視界に入ったのだから、女子生徒には間違いなかった。が、その割に肩に掛かる力があまりにも強過ぎるのに、釈然としなかった。
「私? そんなのどうでもいいよ。ゆうちゃんに教えても、何の意味もないし」
よく分からないが、侮蔑されているのか。この物言いは、おそらくそうだろう。不快感をあまり抱かなかったのは、脈絡のない話であり、到底理解が及ぶものでもなかったからか。
「帰っていいですか。俺、急いでいるので」
「奇遇だね。私も急いでいる。ちょっと一緒に来てくれない?」
そして、がっちりと掴まれた肩への力は、更に強くなる。最早女子のそれなどゆうに超え、男子としても、また規格外のモノと言っていいほどの圧力であった。優希にも、よく掴まれてはいたが、それとも違う、何かもっと強制力が働くものだった。
「なら、この手を離して、俺なんか放って、急いだらどうですかね」
俺の言葉は、あくまで冷静を務める。
「え? 一緒に急いでくれるの?」
「一人で急いでください」
「……意味がわからない」
彼女は真面目に不思議そうに言う。
「分からないのは俺ですよ……」
「だから、分からないでいいって言っている。お馬鹿さんなの?」
「……いや、なんなんですか、あなた」
流石に、これ以上の問答を続ける気にはなれなかった。ただ一つ理解できたことは、話しても無駄だと言うことだけだった。頭がおかしい人だ。
「面倒だなあ。素直に従ってよ」
またさらに、肩への力は強まっていく。
「嫌です。というか、痛いんで離してくれませんか」
「ああ、痛いの、嫌なの?」
「嫌というか、暴力を肯定する人なんているんですか」
「でも、使えるなら使うでしょ。そして、ゆうちゃんは、自らそれがつかえるって白状してくれた」
彼女がそういうと、気付いたら俺は廊下に倒れ伏せていた。
間違いなく、彼女に倒されていた。抵抗は全くできない。天地がひっくり返ったかのように綺麗に捌かれていた。
「一緒に来てくれないなら、折るよ?」
そしてそれに馬乗りになる女子生徒は、俺の右腕を、関節の逆方向へと力を入れてみせた。
「なんですか、脅しですか」
「脅しじゃないよ、本気だよ」
床しか見えず、女子生徒の顔が見えない。どんな顔をしているかも想像できない。
「本気、ですか? 骨を折るって、そんなことをしたら、退学なのはもちろん、警察にだってお世話になりますよ」
「本気だよ。でも、それをゆうちゃんに分かってもらわなくていいよ。ゆうちゃんがおとなしく私と一緒に来るか、腕を折られた上で、私と一緒に来るか。それだけ」
さらに右腕にかかる圧力。
――彼女の行動原理なんか、これっぽっちも理解できない。だが一つ、否が応にも分かってしまった。
「ついていきますよ」
俺はそう答える以外できなかった。
「うん、それでいいんだよ」
彼女は背から降りる。そして、俺が立ち上がるのも待たずに、黙って前へ進んでいく。
ついてこいとも言わない。でも、俺は黙ってついていく。
この隙に逃げることだってできるだろうに、ただその顔が見えず窺い知れない態度が、その自由を奪っていた。
「私はマリアっていうの」
その道中、背後につく俺へ、突如として彼女――マリアは語り出した。
「それで、貴方がゆうちゃんなのね」
今さら確認して、間違っていたらどうするつもりだったんだ。
「そうですけど、なんで知っているんですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「なんでって、いきなり知らない人が自分の名前を知っていたら、気になりませんか」
「そうじゃなくて、なんで許可されていないのに勝手に質問するの?」
「それも、許可必要ですか」
「それぐらい自分で考えようよ。脳みそあるの?」
「ありますよ。なかったら死んでます」
「ああ、それもそうか。なるほど、ゆうちゃんには、ちゃんと脳みそがある」
「でも、あなたの言うことも行動も理解できませんけど」
「うーん、それじゃあ、やっぱり半分くらいしかなさそうだね。ま、半分あるならいいか」
マリアは突然振り向き、俺の頭をぽんぽんと撫でてくる。
その時初めて彼女の表情が見えた。
どこからどう見たって、普通の女子にしか見えなかった。
それに、なぜか俺を本気で気遣ってる様に、申し訳なさそうな微笑みすらしていた。
「ごめんね、いきなり押し倒したりして」
頭をなでなで。むしろ気持ちいい。
――こんなもの、赤の他人を暴力で強制することになんら躊躇わなかった人間の所業ではない。
「謝るなら、やらないでくださいよ」
理解どころか、認識すらできない。見えないものに、混乱することもできず、なんとも抑揚のない言葉だけしか吐けず。
「それは無理。そうしないと、ゆうちゃんは付いてこなかったでしょ。私の脳みそは、完璧だからそこまで分かっちゃうの」
マリアは踵を返して、また先を行く。それを証明するかの如く、俺はそれについて行ってしまう。
「さて、到着っと」
マリアは止まる。校舎のどこかの廊下の端。訪れたことはないが、生徒会室という小さな看板が掲げられていた部屋の前だった。
「瑞穂、いるよね」
そんな言葉だけを口にして、ノックをすることもなく、どかどかと侵入していって、俺も黙ってそれに続いていった。
「いますよ、会長――って、ゆうちゃん!?」
そこにいたのは、国立先輩だった。先輩は、一瞬マリアをにらむような表情を見せたものの、俺を見つけると、すぐにそれを解いて、まったりとした表情に戻っていた。
「え、なに。ゆうちゃん、私になにかよう?」
「あ、いや、その」
……なんとなく、分かる。先輩は俺が来たことに喜んでしまっている。だからこそ、言葉が続かなかった。
「ゆうちゃんじゃないよ。私がゆうちゃんを、私の意思で連れてきたの」
その間に入るように、マリアはむき出しの事実を口にした。
「会長が? どうして?」
「そんなの、決まっているじゃない」
マリアはまた俺の後ろに回り込む。
また、右腕を曲げ始めた。
「瑞穂がこれにサインしてくれないなら、ゆうちゃんの骨を折る」
マリアは、ぐちゃぐちゃになった紙を差し出しながら言った。
「――え、ちょ、ゆうちゃんは関係ないじゃないですか!」
国立先輩はそんな脅し文句を聞いて、焦っていた。
焦ってくれていた。
それは、当然なのかもしれない。得体の知れない思考をする人物に対しての反応としては。
だから、俺はこんな言葉を口にしていた。
「大丈夫ですよ、この人、折る気ないみたいですから。俺のことなんか気にしないで」
三問芝居にも程がある、事実の言葉だった。
――先程と同じ行動なのに、マリアの力は全くと言っていいほど感じられず、抵抗すればすぐにほどけるような圧力だった。
「……分かりました」
でも、国立先輩は唇をかみしめるように、差し出された1枚の書類に向かっていった。
「あの、大丈夫ですよ、国立先輩、俺」
それでも俺は、ほざき続ける。
「ううん。なにも心配しないで。ゆうちゃんにはなにも関係ないことだから。これでゆうちゃんが今後こんなことに巻き込まれずにすむなら、安いものだよ」
そこは否定できなかった。
「……分かりましたよ。これでいいんですよね、会長」
国立先輩に一枚の紙を見せつけた。退会届と書かれた紙であった。
「違うわよ。元、会長よ。会長さん」
「……そうですね」
二人はそれで会話を止めた。
そして、マリアは俺の右腕を放して、その場を去って行った。
「なんだ、やっぱり脳みそあるんだ、ゆうちゃん」
俺だけに聞こえる、そんな言葉を残して。
「ごめんね、ゆうちゃん。面倒なことに巻き込んで」
マリアが去ってからすぐに国立先輩は言葉を出した。
「別にいいですけど、あの人、一体何なんですか」
「……中野さんは、生徒会長、だった人」
「中野?」
「中野綾子っていうの。あの人の名前」
「……マリアって名乗ってましたけど」
「あー、うん。最近はそう自称してたね」
国立先輩は、ぐちゃぐちゃの退会届を眺めながら言った。
「以前はあんな感じの人じゃなかったの。もっとしっかりしてて、頼りになって、進んで責任あることをしてきた人なのに。ここ最近になって、中野さんが、いきなり生徒会を辞める、なんて言い始めてから、人が変わったようにあんな感じなの」
「そうなんですか。国立先輩も大変だったんですね」
「まあ、これからも大変なんだけどね」
先輩は苦笑いして言った。
「会長が引退したなら、それで終わりじゃないですか?」
「次の会長が決まるまで、副会長の私が代理をしないといけないの。しかも、生徒会選挙は秋にあるから、それまではずっと」
「ははは。大変ですね、会長さん」
「もう、からかわないでよ、ゆうちゃん」
「でも、すごいと思いますよ。会長なんて、この学校に一人なんですから」
「……ありがとね」
本当に、先輩は、照れくさそうに笑ってくれた。
「それじゃあ、俺は行きます。遅れましたけど、優希のところへはまだまだ間に合うので」
「あ、待って。ゆうちゃん」
先輩に止められた俺は、足を止めざるを得なかった。
「どうしたんですか?」
「あ、うん。これ」
先輩の手には、手のひらに収まる小さな熊のぬいぐるみのアクセサリーがあった。所々不格好な縫い目があって、決して流通に出回るようなできのものではなかった。だからそれが、先輩が作ったものだと分かった。
「これ、ゆうちゃんの入学祝いに上げようと思ってたんだけど、ちょっと機会がなくて」
「……ありがとうございます。大切にします」
俺はそれを、携帯に付けた。
「わざわざ、そんなところに付けなくていいよ」
「ここでいいですよ。いつもよく見えるところに。そうすれば、次はどれくらい先輩がうまくなってるか、一目瞭然じゃないですか」
「うう、精進します」
「でも、うまくなってはいますよ。中学の時なんかよりずっと」
「うん、ありがと」
先輩は、気恥ずかしそうに言う。
「それじゃあ、俺はこれで」
「うん、ゆうちゃん、またね。でも、無理はしすぎないでね。なにか困ったことがあったら相談してね」
先輩は、それだけ言ってくれた。
「また、国立先輩」
足早に、去っていった。
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