青春の全てを奪った奴の娘が贖罪にやってきた

虚微りゅん

1章

第1話

 背中から帯を締める。

 初めて袖が通った浴衣は、優希の体にぴったりと合わさる。女性的な特徴を見せつつ、そのフォルムとして写る。

 二人だけの部屋で、俺はそれをじっくりと見つめる。

 袖をひらりと舞わして、優希は首を捻った。

「うーん、なんか微妙じゃない?」 

「そう思う?」

「うん、見た目もなんかアレだし、着てみてもなんかアレ。まあ、着心地は浴衣だからかもしれないけど」

 優希の着こなしを見て、俺も首を捻った。

 作成途中も、何かもやもやとしていたが、実際にモデルが来て見せても、あまりいいものに感じない。

「それにしても、浴衣なんて珍しいね。なんかこう、和風なものを作るなんて」

 優希は浴衣姿であることなんか気にせず、そばにあった椅子に足を組んで座った。

「和装はあまり手を出したことがなかったからな。ちょっと作ってみようかと思って」

「それってつまり、優理が作りたいものを作ったんじゃないってこと?」

 優希は何か確信したように言ってくる。

「まあ、そう言われれば、どちらかといえばそうだけど」

「それじゃない? 自分に正直になった方がいいもの作れるんじゃ?」

「ま、そうかもな」

 納得した様に頷く。でも、もう一度優希を見つめる。

「はい、これで、モデルの手伝い終わり〜」

 だが、優希はもう耐えきれず、立ち上がるとすぐにバラバラと浴衣を剥ぎ出した。

 優希は一瞬で下着姿になる。男の目の前にいることなど何も気にしない。

 ただ、男と言っても、双子の弟ではある。

 興奮もしないし、見慣れているものですらあった。

 でも、ふと優希の体を凝視してしまう。

「何、じっくり見てんの?」

 Tシャツを取りながら、優希は恥ずかしがるそぶりも見せずに言ってきた。

「いや、ここ1年で随分と体付きが変わったなと思って。流石、日本一の陸上中学生だなって」

 同年代の女子――は分からないが、男子と比較したって、ずば抜けて出来が違う。

 隆々としているわけではない。だが、明らかにただの肉の塊などとは呼べない、敢えて言うならしなやかな合金とでもいえば良いものか。 

 分かってはいたが、改めて見ると、簡単には目を離すことはできなかった。

「まあ、最後の年だったからね。ちょっとだけ、本気出してやっただけだよ」

 優希はなんてない様に答える。

「……それって、楽しかった?」

 小さな声で聞いたつもりだった。

「楽しい、かあ。前は確かになにも考えずにやってたからなあ。ま、どちらかといえば、前の方が楽しかったといえばそうなるのかな」

「じゃあ、もう本気出さないの?」

「そんなわけないじゃん。私はもっと本気を出せるけど?」

「そう、なんだ」

 ぐちゃっと床に落ちた浴衣。

 俺はまたそれを拾わなければならない様だった。

「あ、なに〜、優理。頑張るお姉ちゃんにシンパシーでも受けちゃったのぉ」

「べ、別にそんなことは」

 そんなことないわけなかった。

 以前までは、時にはただ無邪気に振る舞う優希が疎ましく感じたことすらあったのに。

 中学最後の1年、見る世界を変えて、直向きに進み続けた優希は、ただただ本当に眩しかった。

 ただ、こんな俺の些細な心情まで気づけるようになっているとは思わなんだ。前まではなにも気づきはしなかったくせに。

「もう、全く。こんな可愛いとこがあるなんてねえ。もっと早く、お姉ちゃんにそう言うの見せてくれれば良かったのに」

 Tシャツだけ着て、ズボンすら履かずに優希は俺を抱きに来た。

「ああ、もう鬱陶しい! そういうなら、優希こそもっと早く俺の気持ちをわかる様になってくれれば良かったんだよ!」

「もう分かってるもーん」

 優希に抱かれ、所詮インドアが本命の俺では対抗できず、本当に好き勝手にされてしまった。

「――でも、私がそうなったのは、優理のおかげだから」

「――あっそ」

 窓からは、桜が咲いて、また新たな春が始まる風が吹いてきた。


 ※


「おーい、立川。寝てるぞ」

 目覚めたのは、居眠りに怒るわけでもなく、ただそういう状況を伝えるだけという、気迫のない歴史教師の注意だった。だがしかし、名指しで何かを言われるのは、流石に意識を覚醒させるのには十分だった。まだもう少し、寝ていたかったのに……

「やべっ!」

 そのまま口に出した言葉のせいで、周囲の怪奇の目は一気に集まった。だが、そんなことを気にしている余裕もなかった。ノートの文字と、黒板の文字。見比べると、黒板の半分がノートに載っていなかった。大失態にもほどがある。もはや教師の解説など耳に入れる余裕などあるわけもなく、その一切無視して、ただ黒板の文字だけを書き殴っていった。授業が進めば、黒板の内容が消されてしまう。そうしてノートに書き写すことさえできない事態は避けなくてはならなかった。でもどうしてか、こういうときに限って、教師の無駄話は少ない。粛々と授業は行われ、シャーペンを持つ右手は、焦りから力は込められる。力が込められるからこそ、先端が折れる。またそれに苛つきながら、必死になって書き写していき、また折れる。

 だが、いくつもの芯をおった先に、どうにか写しそびれるという最悪の事態は免れた。そこに記されたのは、自分でなければ解読できないような象形文字だったが。

「……書き直しだな」

 諦めのような呟きとともに、この時間を終える鐘は鳴り響いた。昼休みを告げる音だ。多くの生徒がそれと同時に歓喜に沸き、教師は誰にも聞こえていないにもかかわらず、終わりの一言発してその場を締めた。

 俺は何も変わらない。机の上から一歩も動かない。登校道中コンビニにて購入したサンドイッチをかじりながら、黙々とノート、教科書、参考書とにらめっこを続ける。回りがどのような道楽にいそしもうとも、それに動じることは何もない。ただひたすらインプット。そして、それを吐き出すための準備。高校入学から1ヶ月近く経って、それが俺にとっての日常となっており、それを休んだ日は一度たりともなかった。

「……重いな、書き直しは」

 その言葉とともに、でも手は何もためらうことなく、一速も二速も動きを上げていった。

 ――全教科の完璧な把握。元より中学時代から勉学には全くといっていいほど興味もなく、ひたすら手芸、服飾の制作だけに勤しんでいた。俗に言う『馬鹿』とも言い切れる分類にいた俺には、だからこそとてもとても大きなハードルで、時間など足りうるはずもなかった。

「あの、立川君。ちょっといいかしら」

 不意に声をかけられる。

 『自習馬鹿』でクラスに友人など一人もいない俺にとって、それはとても珍しいことだった。食べかけのサンドイッチを慌てて飲み込み、また慌てて鞄からペットボトルのお茶を取り出して、流し込むほどに。

「あ、ごめんなさい。いきなり話しかけて」

 そういって謝ってくる声の主――記憶の端に確かにある女子生徒の名前を、必死こいて思い出そうとした。

「――大丈夫ですよ、秋川さん」

 クラス委員長の名前。流石にそれはまだあった。――下の名前は、もうなくなっていたが。

「えっと、いきなりで悪いんだけど、次の時間の数学、宿題出てたよね」

「そうですね。出てましたね」

「立川くんは、やってきた?」

 媚びる様な聞き方だ。言いたいことはわかる。俺も中学までは常にそっち側だったのだから。

「やってきましたよ」

 無碍に断ってもいいことはない。そう判断して、そう返した。

「ちょっと見せてくれない? どうしてもわからない問題が一問あったのよ」

「いいですよ、ノートの尻の方に書いてあります」

 机の中から、数学のノートを一冊、取り出した。それでさっさといなくなってくれることを祈って。

「ありがとう。終わったらすぐに返すね」

 素直な笑顔の感謝を向けてくれる中野に、嫌悪することはない。

「どういたしまして」

 だが、それで会話は、それで終わる。

 それでいい。

 秋川は去り、俺はまた、じっと歴史のノートと向かい合い始めた。

「えーっと、ちょっといいかな、立川君」

 見知らぬ男子生徒――ちょっと真面目そうな風貌の生徒が話しかけてきた。名前は記憶の端にもなかった。

「なにかな?」

「次の時間、数学の授業あるよね?」

 千客万来。開店した記憶はない

「宿題のこと?」

「え、ああ、うん」

「それなら、秋川さんにノートを渡したから、そこで共有して」

「え、うん。わかった。ありがとね」

「どういたしまして」

 流石にちょっといらっとした。だが、幸いなのが、さらに同じように宿題を求める者が来なかったこと。ちらっと移した視線の先には、ノートを渡した二人の元にちょっとした人だかりができていた。俺のところに来る代わりに。たぶん、元々このような「宿題を写させてあげる」役目を担っているのが、今の二人だったのだろう。それにしても、今日の宿題はそれほどにも難しかったのか。まあ、それを解けるようになっているのは、悪くない気分だ。

「すごいよね、立川君。この問題、簡単に解いちゃっているんだから」

「ほんとにね。ずっと勉強ばかりして、えらいよね」

 でも、そんな会話も聞こえてきて、また、シャーペンの先端が、パキンと割れた。

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