僕らはキスをした。そしてさよならを言った。

チクチクネズミ

恋と悲しいはよく似ている

 初めて女の人とキスをした。

 みんな初めてのキスはレモンとか暖かいとか甘いとか言っていたけど、僕の場合はその経緯を含めて冷たかった。


 僕が紗英さんと出会ったのはコンビニで夜勤バイトをしていた時だ。深夜のコンビニは人が来ないばかりで掃除と仕入ればかりで時給はいいが退屈で、人が来るまでは鼻歌を歌うか、レジの中で同じシフトを組んでいる人と軽くおしゃべりをするだけ。

 その相手が紗英さんだったというわけだ。

 

「近藤さんってフリーターなんですか」

「ううん主婦業やっている。月に何度か単身赴任とかで家に誰もいないから空いた時間をここで働いているの」

「結婚しているんですか。僕結婚とかよくわからないんですけど、自由そうでいいですね」


 すると紗英さんは照明を落としたように表情が暗くなる。明らかに地雷を踏んでしまったようで、慌てて謝罪した。


「その、僕、恋愛とか疎くて。すみません。大変なんですよね結婚って」


 しどろもどろになりながら拙い言葉で謝ると、紗英さんはふわりと長い髪をかきあげた。いっしょに甘い香水も上がってきた。


「このシフトの後って暇かしら」


 僕は素直にうなずくと「ちょっとうちに寄ってお茶しない」隣にいたバイト仲間が急に女に変貌する。ぞわりと熱を伴った興奮が起きた僕の体は、漫画のようなドキッという可愛らしい音は鳴らさなかった。


 バイト上がりに紗英さんの家に上がると、彼女に進められるまま求められるままベッドの上で交わった。

 僕より十歳も年上の紗英さんは色っぽくベッドの上で体を揺らしていた。わきに飾られた写真たての中にいるウエディングドレスを着飾った人とはまるで別人のように、夜中コンビニで働いていた夫がいる主婦とは似ても似つかない情欲で。


「ごめんねこんなことしてしまって」


 終わった後紗英さんは魔法が解けてしまい、元の影のある人に戻ってしまった。当初は一夜の過ちだけで済ませようとしていたが、このまま帰るのは不憫に思い。


「なんで謝るんですか。僕はただ誘われたから来ただけですよ。断ったら近藤さんに失礼じゃないですか。また誘ってくれてもいいですか」


 すると紗英さんはまた来てくれると先ほどよりも影が薄くなった顔を見せてくれた。


 以降、コンビニのバイトが終わると僕は紗英さんにメッセージを送り、『一緒に寝よう』というメッセージが来ると紗英さんの家で思春期特有のすぐに溜まる性欲を吐き出した。旦那さんがいない間を狙って奥さんの体をもてあそぶ。僕もまたあの日コンビニ店員から間男に変貌してしまった。


 けど僕の場合はちょっと変である。キスをしなかった。紗英さんがブスというわけではない、色っぽいし美人だしエロいし、たぶん大学の友人は紗英さんとセックスしたらすぐにチューするだろう。でも僕はどんな女の人でもキスをしたいという気持ちがとんと湧かなかった。大人の接吻はするのにキスはしないというちぐはぐさに悩む時もあった。でもそんな感情は、交わるとその複雑な感情は精と共にゴムの中に吐き出されて捨ててしまう。


 紗英さんもキスは求めなかった。僕らの関係はあくまで体だけ、持て余した体を発散するだけの関係でとどめたい、恋愛とかよくわからない僕だからこそがちょうど相性が良く長続きした。

 不倫はするけど奪うわけではない。求めてくるから応じてしまう。

 お互い溜まっていた物を吐き出したい利害の一致でつながっていた。

 だからだろうか。果てた紗英さんの顔はとても安らかな息づかいをしていた。


 そんな関係を続けて一番印象に残ったのは、桜がすっかり葉桜になった五月の頃だ。履修科目も減り紗英さんに会いに行ける時間も増えて昼間からベッドで交わり、疲れからかそのまま寝てしまっていた時だった。


「起きて、クローゼットに隠れて」


 血相を変えた様相で紗英さんが叩き起こし、パンツも何も履いていない僕をビニール袋を被った服で満杯のクローゼットに押し込めた。狭苦しい小部屋の中のわずかなすき間からリビングをのぞく。予想していた通り、紗英さんの旦那さんが帰ってきていた。


「今日は早かったのですね。珍しい」

「今月からノー残業デー導入だったからな。夕飯できているか」

「ごめんなさい。今日パートの日で、それにあなたが帰ってくるとは思わなくて」


 舌打ちする音がはっきりと聞こえた。連絡もなく急に帰ってきてもう用意できているなんて図々しくないか。だが紗英さんは言い返すこともせず夕飯を買ってくると旦那さんに伝えて出かける準備をしようとする。


「いらん。もう外で食べてくる。それで検査はどうだった。先週行ってきたんだろ」

「ちょっと子供ができにくい体だけど、薬を飲めば改善するらしいって先生が」

「なら早く飲んでくれ。この間から母さんから孫はまだかってせがまれているんだ。もう結婚して四年も経っていて何もないから、まるで俺がダメみたいに言われるこっちの身にもなってほしいよ」


 ブツブツと文句の対象を自分の母親から紗英さんに見事に切り替える技は洗練されていて、見ているだけで腹立たしい。


 どうしてあんな人と同じ部屋で同じベッドで過ごしているのだろう。旦那さんだから僕と同じことをしているのは間違いない。子供を早く早くなんて、機械じゃないんだから挿れさえすればポンと出てくるわけじゃない。

 いや挿れる時でさえ僕は慎重だ。自分の性欲が強いことを自覚しているから無理やり挿れたら相手の女性が壊れてしまわないように、宝石を扱うようにやっている。きっとあの男はセックスが下手なのだろう。


 紗英さんの方を一瞥すると、ひどく大人しかった。僕の前では素の穏やかで明るい彼女とは思えない。旦那の前ではこんな風に変化してしまうのかと震えた。

 結婚というのは不満を吐き出したり、押さえつけるものではないはずだ。そもそもお互いが好きだと理解した恋愛というものを経て、結婚があるはずだ。

 彼女はどうしてこんな苦しい生活から逃げようとしないのか。


 でも僕は紗英さんがあの男にがんじがらめにされているのを、扉の隙間から眉をひそめてただ見ているしかできなかった。


***


 そして別れの時は紗英さんからのメッセージが『今日話したいことがあるの』と変化したことで起きた。


「私たちの関係終わりにしましょう」

「……バレましたか」


 他人の家のリビングでまるで家族会議のように真剣な表情で僕らは見つめ合っていた。こうなることになると前々から予感はしていて、旦那さんに殴られる覚悟ぐらいはできていた。むしろ上等だった。あいつを前に言ってもやりたい。


 だが紗英さんは首を振って否定する。


「夫との子供ができたの」


 紗英さんはお腹を愛おしく擦って誇示するように何かの束縛から解放感が噴き出していた。僕の目からしたら紗英さんの体には鎖が絡みついたままなのに。


「勝手な人でごめんなさい。でも君に慰め続けてくれたおかげで今日まで生きてこれたわ」

「大げさじゃないですか」

「それほどに気持ちよかったの。君とのシていたことが。悩みとか色々と忘れてくれるほどに」


 彼女が微笑みながら感謝する理由がよくわからなかった。

 僕を性処理係にしていたのは承知の上だった。けどそれが愛されたいからとか、欲求不満ではなく、あの男との子ができるまでのつなぎのためだったのが理解できない。どうしてそこまでして結婚という呪縛にこだわるのだろう。

 用意してくれたレモンティーの湯気が消えてしまうほど彼女を見つめ続け、僕はやっとそれを口につけた。 


「紗英さん、最後にまた寝てくれませんか」

「いいわよ。今日夫はお義母さまのところに行っているから帰ってこないし」

「それと。キスしてくれますか」


 最後のお願いにも「いいわよ」と微笑み、あごを持ち上げて唇を重ね合わせた。

 いつも体を重ね合わせてて彼女の体温が僕よりも一度高いことは体験していた。なのに、同じ体で構成されているはずの唇は冷たかった。


***


「ありがとう。私を愛してくれなくて」

「さようなら。もう会わないことを願います」


 僕らはためらいもなく体を離し、マンションを後にする。


 これでよかった。いつか僕らは別れる運命なんだ。あのまま彼女とダラダラ関係を続けていると就職活動に支障がきたすだろうし、いつかバレてしまうかもしれない。だから旦那さんとあの人の間の子ができたのは良いタイミングだった。


 わかりきっていたはずだ。本気で愛し合ってはいけないと。たかが大学生が人妻と愛の逃避行なんて……

 階段を降りながら何度も自分に言い聞かせていても、コンクリートの階段から吹き付けてくる冷たい秋風が、彼女と最後に交わったあの火照った顔がくっつく姿が頭をよぎらせる。


 マンションから出て振り向くと、さっきまでいた部屋の明かりがあの人のものと思われる裸体と同じシルエットが映ると、僕はさっと後ろを向いてジャケットの前を口元まで閉めた。

 恋はひどいものだ。まだあの甘くて苦いあの味が残っているのだから。唇を振れて見るとあの柔らかく冷たい感触が蘇ってくる。


 恋しい。

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