第6話:勇者と魔王の出会い
ムラサメはトトリス迷宮都市のスラムで産まれ育った。
彼女は両親の顔を知らない。ムラサメという名前も自分でつけた。
なんでも自分の血のルーツである東方に、そのような名前の伝説の刀剣があるらしい。もっとも、ムラサメが本当に東方の血をひいているかすら定かではない。黒髪黒目という自分の容姿から勝手に当たりをつけただけだった。
そんな不確かなものでも縋りたかった。スラムの『名無し』や『黒髪』ではない。ムラサメという確固たる誰かになりたかった。目の前の景色から目を反らして、遥か彼方にある見たこともない東方の景色に縋った。
だって現実は苦しいから。
どうしようもない程に、毎日毎日彼女を痛めつけてくるから。
幼い彼女にとって、世界とは月のない真っ暗闇。明かりなんて存在しない。何処に行けばいいのかも分からない。
そんな世界から、人生から、ムラサメは抜け出したかった。
そして、温かい日の光のある場所へ行きたかった。
だから。
少女はずっとずっと、此処ではない何処かへ思いを馳せていたのだ。
だけど現実は変わらない。
「おい、黒髪! 次はあれを狙え! 恐らく聖教王国からの観光客だ。きっとたんまり財布に金を蓄えてる。腰に付けた懐中時計も高く売れそうだ」
己のことを『ムラサメ』と呼ぶ者なんて殆どいない。自分は何処まで行ってもスラムの『名無し』であり『黒髪』。腐った性根の大人たちに顎で使われ、屋台や観光客から盗みを重ね、それで食い扶持を稼ぐ日々。
盗みが本当はいけないことだなんて分かっている。
幸か不幸か、ムラサメはその生まれ育った環境に比して、産まれつき至極全うと言える倫理観を持っていた。持ってしまっていた。それが少女の精神を追い詰める。
己の行いに対する罪悪感。先行きの見えない将来への不安。心の奥には、ねばりつく泥のように、ずっと恐れがこびりついている。
だけど少女の毎日は変わらなかった。
盗みが見つかり、盗んだ相手や仕事を成功できなかった罰としてスラムの大人たちに、体中が痣だらけになるまでまで殴られても。運悪く流行り病にかかり、仲間たちからも見捨てられ、熱病に浮かされがらベッドの上で必に天に祈っても。
現実は何も変わらなかった。
先の見えない真っ暗闇。何処に行けばいいのかも分からない。そもそも何処かに辿り着けるかも定かではない。
ああ、だけど。
転機は突然訪れたのだ。
それはムラサメが恐らく12歳になった冬。
――――その日、少女は『勇者』となった。
アイオーン迷宮の入り口前に刺さっている『聖剣』。
毎日多くの冒険者が抜こうと挑戦するも、だれもが失敗に終わったそれを、ムラサメはあっさり引き抜いてしまったのだ。
冒険に胸を膨らませたわけではない。
『スタンピート』を防ぐという崇高な志を抱いたわけでもない。
ただ今よりも、もっといい生活をしたかっただけ。
ただ幸せになりたかっただけ。
そして、それは漸く叶うのだ。
そう、思っていた。
◆
「はあっ! はあっ!」
ムラサメが『聖剣』を引き抜いて、数日後。
彼女は全身血塗れでトトリス迷宮都市の元は倉庫だった廃墟で震えていた。
埃とカビ、そして血の鉄さびの臭いが充満した、とても『勇者』のいるべきとは思えない場所。だが、産まれと育ちという意味ならば、これ程彼女に似合った場所もない。
「どうして……どうして……こんなことになるの?」
呟く少女の声に応える者はいない。
ムラサメを覆うその血液は自身のものではなかった。
「わたしは悪くないっ! あいつらがっ! あいつら……が……」
息を荒く吐き、ガチガチを歯を鳴らす。それは決して寒さだけのせいではない。
迷宮の基本ルールをおさらいしよう。
ひとつの迷宮につき『聖剣』はひとつ。
そして『勇者』もひとり。
誰かが『勇者』に選ばれている間は、他の者が『勇者』になることはできない。
すべての冒険者が心の奥底では『勇者』になりたがっているのに、だ。
『魔王』に唯一ダメージを与えれるという迷宮攻略において必須な役割。『聖剣』から得られる膂力・魔法の強化などの恩恵。それらから生じる圧倒的な名声。
それに嫉妬する者は必ず出る。
自分こそが『勇者』に相応しいと考える者は必ずいる。
……ましてそれがスラム出身の汚らしい小娘ならば。
『聖剣』は破壊不可能だ。
だが、『勇者』は生きた人間だ。死ぬし、殺せる。『勇者』を殺せば、また別の誰かが『勇者』になれるのだ。
だから、
「っっ! すげえ! まじかよ、『聖剣』を引き抜きやがった! お前がアイオーン迷宮の『勇者』だ! なあ、ぜひ酒を奢らせてくれ! 『勇者』に酒を奢ったって、ダチに自慢したいんだよ!」
それは普段のムラサメならば決して行さないミスだった。
初めて会った相手に酒に誘われ、その席で泥酔するなんて。
だが、少女は『勇者』となったばかりだったのだ。気は緩んでいたし、警戒心は薄くなっていた。全てが夢見心地だった。
間一髪でムラサメが目を覚ました瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、3人の男たちが自分を取り囲み剣を振り下ろそうとする光景だった。場所はさっきまでいた酒場ではなく、日も落ちた冷たい路地裏。雪がしんしんと降っていた。
「っ!? え、なん、で……」
「糞。目覚めたか。だけど、『聖剣』は没収済みだ。この剣はよぉ、てめえみてえな糞の価値しかないようなガキが触っていい代物じゃねえんだっ」
「その通り。身の程をわきまえて、死ねっ! ゴミ野郎がっ!」
『聖剣』はムラサメの腰にはなく、男たちの一人が抱えていた。
「てめえは俺たちの憧れを汚しんたんだよおっ!!」
血走った瞳で口角から泡を飛ばしながら、男たちが剣を振り下ろした瞬間―――。
「っ!? うわああああああああっ!!??」
彼女は悲鳴を上げ、『聖剣』がムラサメの元に飛来した。
ムラサメはとっさに『聖剣』を振る。
びぎゅ、とカエルが踏みつぶされたような声を出しながら、男たちが血しぶきを上げて倒れる。鮮血が路地の壁と雪とムラサメを濡らす。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐く。とっさの出来事で思考が追い付かない。
そんなムラサメの耳に第三者の声が響いてきた。
「今の悲鳴は一体? ……おーい。誰か、いるのか? お前、そこで何を……っ!! お、お前がこいつらをやったのか!? 殺したのかぁっ!」
身なりを見るに冒険者だろう、頭にオレンジのバンダナを巻いた若い青年は、狼狽した声でムラサメに問いかける。
「う、動くな。動けば斬るぞ!」
言いながら、彼はとっさに背中に背負っていたバスターソードを構えた。そして、ムラサメが切り伏せた男の一人の顔を見て呆然と呟いた。
「……おい、嘘だろ。リック? よくも、よくもっ!」
ムラサメが斬った者たちの一人はバンダナ男のかつての相棒だった。そんなこと、ムラサメは知る由もないが。
「あ、あぁ。いや、……ちが……」
「殺してやるっ!!」
「く、くるなっ……」
顔を憎しみで染めながら男はムラサメに突進してくる。
「あ、う、うわあああああああああああああああああああっ!!!!!!」
ムラサメの頭の中はぐちゃぐちゃだった。ただ、彼女の身体は勝手に動いていた。
そして。
ムラサメは4人目の返り血をその身に浴びた。
◆
「路地裏で冒険者が刺されたらしい……」
「人数は4人だってよ。怖い話だ」
「傷が深くて、もう助からないらしいぞ」
「犯人はまだ逃走中だ!」
「わ、わたし、さっきそれらしき人を見たわ。全身に血を浴びて剣をもって路地を走ってた…。目があったの。こ、怖かったぁ」
「捕まえようとした衛兵も何人か斬られたらしい。今日はもう外を出歩かない方がいいな……」
「一体何の理由があってこんな凶行を……」
「犯人は『勇者』って噂もあるが」
「そんなわけあるか! ……もし、『勇者』だとしたら、『勇者』の風上にも置けないやつだな」
「恐ろしいわ。そんな人が勇者なんて……」
「もう2日だぞ。はやく捕まえろ!!」
「いっそ殺しちまえ!」
◆
―――どうしてこんなことに。
ムラサメの頭の中をそんな言葉が何度も反芻される。
己は『聖剣』に選ばれたのだ。『勇者』となったのだ。
なのに、現実は『コレ』だ。
ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ、と扉が軋む音がした。
ムラサメは眼光鋭く『聖剣』を構えた。
扉が開く。
月光は差し込んでこなかった。新月。その日は月明かりのない夜だった。
出入り口に一つの影がたっていた。
背は低く顔立ちは幼い。おそらく十代前半だろう。フード付きのポンチョを羽織っており、一見武器は確認できない。
ムラサメははっと息をのんだ。
その人物の顔立ちが余りにも美しかったからだ。
処女雪のように白い肌にリンゴの様に赤い唇。瞳はよく晴れた春の空のように澄んでいて、長いまつげがそれを彩る。明かりのない夜でもなお輝いて見えるかのような、銀の髪が肩口で切り揃えられている。
まるで、天使のような、いや、きっと天使がこの場にいても裸足で逃げ出すような神の造形。
まるで
この数日で更に淀んだ瞳を向けて、ムラサメは問いかける。
「なんだ、お前」
わずかな沈黙のあと、少女は口を開いた。
「…………ルイン・アクセリア」
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