第6話 クレープと恋バナ

 小鳥は決めていた通りいちご味を、蓮は直前まで迷いに迷った末、チョコバナナ味を買った。クレープ屋の屋台の横にお店のロゴがデザインされた真っ赤なベンチが設置されていて、蓮はベンチに腰掛け、隣に小鳥と車椅子を並ばせた。新しめのベンチのデザイン性は今時のSNS映えというものに相応しいらしく、蓮が座っていない方のベンチにはクレープを片手にカメラを構える女子高生がいる。制服は自由に気崩していて、ソックスも学校指定のものとは全然違うように見える。女子高生というのは実に自由な生き物だな、などと考え事に耽ってはぼーっとしていると、急に左頬を固いもので突かれた。

「うわっ」

「蓮君はもしかしてああいう子たちがタイプなのかな?」

 プラスチックスプーンの持ち手の先端部分を突き出すようにして構えながら、小鳥が蓮の顔をまじまじと覗き込んで訊いてくる。

「ええっと……」

 一気に自分の顔全体に熱を帯びていくのが分かる。蓮としては、不意にこんなにも顔を近づけられてしまうとどうにも困ってしまうのだ。今自分が何かを問われたのはわかる。というか、訊かれた瞬間はおそらくその内容を理解していたし、答えを口にしようと脳がせっせと働いてくれていたはずなのだが。

「……冗談で訊いたのにそんなに困らなくても」

「いやぁ、はは……」

 小鳥の顔が目の前にあるという現実と向き合ったその瞬間、頭の中からはそれ以外の全てのことが消え去ってしまった。消失した、蒸発した、飛んで行った、どう表現するのが適切なのかはわからないが、もう蓮の脳内キャパシティは目の前の小鳥の可愛さだけで溢れかえってしまっている。

 で、何を訊かれていたのか。少し頬の熱が引きそうになったところで、ようやくそんな問いが頭の片隅に降りて来るのだ。

 しかし、何かを訊いてきた小鳥本人はもうすでに呆れ顔で、どこか不服そうに口を尖らせては小さな一口でクレープの逆サイドを齧っている。淡く艶めいた唇にうっすらと乗った生クリームはいつもに増して大人っぽく清楚な小鳥に、少しだけ幼い印象をプラスしている。

「お、美味しいですか?」

「うん! すっごい美味しい。蓮君のはなんだっけ?」

「俺の方はチョコバナナですね。いちごも気になりましたけど、また今度にしときます」

 ——ぱくり。小鳥よりは少し大きめの一口で、蓮もクレープのサイドを齧る

 予想はしていたが、やっぱり甘い。チョコと生クリームが甘ったるいのは当たり前であるし、バナナもかなりの糖度を秘めているようで、さらに別の甘さが上乗せされる。

飲み込んだ後で、「こっちも美味しいです」と答えてみたものの、その感想を言い終わるまで小鳥にじいっと見つめられていたのが何だか恥ずかしくて、思わず頬をかいた。変な食べ方でもしていただろうか。

「ねぇねぇ蓮君」

「どうかしました?」

「——あ」

「あ?」

「……蓮君がヤンキーみたいになった」

「いやそういうつもりじゃあ!」

とりあえず小鳥の真似をして「あ」と発音しただけだったが、ついでに眉もへの字を書いていたらしく、小鳥の顔が一瞬で青ざめる。

まさか自分のような人間がヤンキーと称される日が訪れるとは思ったこともなかった蓮だったが、万が一変な誤解でもされたら困るのでちゃんと否定はしておいた。

それで、結局小鳥は何を言いたかったのか気になったので、また隣にいる小鳥へと視線を戻すが、またしても同じ「あ」の体勢のままで、結局蓮はぽかんと疑問符を浮かべてしまう。

そうしてついに見兼ねた小鳥が、「もうっ」と口を窄めて、少し頬を赤くしながら蓮を諭した。

「蓮君の一口ちょーだいっていう『あ』なんですけど!」

「え、え? え⁉」

「だめ?」

「い、いいですけど……」

 そういうことか、と今更ながらに理解して蓮は固まる。

 しかしいいのだろうか。既にあらゆる角度から齧ってしまっているし、このまま小鳥が齧るとしてもそれは世間でいう「間接キス」というやつに当てはまったりしないのだろうか。それともあれはストロー付きの飲み物を共有した場合のみなんだろうか。

 どちらにせよ、自分の粘膜が接触した部分を小鳥が直接口にするのだ。否定的な意味では全くないのだが、別の意味での抵抗やれ迷いやれ、とにかく頭がパンクしそうで変な汗が出てくる。動揺を隠せない。

 しかし、気付けば蓮のすぐ目の前には小鳥の横顔が伸びていて。

「いただきまーすっ」

「……っ!」

 眼前に迫ったサイドに垂れた黒髪の暖簾が、雪のように白くしなやかな指先にゆっくりと持ち上げられて、小さな耳にふわりとかかる。この甘い香りで心臓が飛び跳ねるのは今日何度目かわからないが、一向に慣れそうにない。そうして小鳥の薄い唇が、はむっと一口蓮のクレープを捉え、指先にはわずかに引っ張られたような感触を覚える。

「ん、バナナも美味しいねー!」

「……なら、よかったですけど」

 元の姿勢に戻りながら、小鳥は小さくもちゃもちゃと咀嚼して飲み込んだ。

 心なしか小鳥の頬にも少し赤を差しているような気がしたが、蓮ほどではない。

「じゃあはい、小鳥お姉さんから蓮君にもおすそわけ。ふふっ」

 そう言って、今度は小鳥が蓮に自分のクレープを差し出してくる。

「……い、いいんですか?」

「いらないならあーげないっ」

 ——ぱくり。小鳥が目の前でクレープを齧りながら、したり顔で蓮を見つめてくる。

 こうやって小鳥のペースに翻弄されてしまうのは今に始まった話ではないが、蓮としては小鳥の心境があまりにも読めないままでいるので、どうにもやりづらいのだ。

 はっきり言って、蓮は小鳥がたまらなく好きなのだ。目まぐるしいほどにころころと移り変わる表情はどれも可愛らしく、たまらなく愛おしく思う。それでもまだ蓮に見せていない表情を、その無垢な笑顔の裏にたくさん秘めているのかも知れない。そう思うと、もっと彼女を知りたいと思うし、触れたいとも思う。隣に小鳥がいないときでも、気付けばそんなことで蓮の頭はいっぱいだった。

「じゃぁ、いただきます……」

「ふふっ。はい、どーぞっ!」

 腹をくくると、再び蓮の前にかじりかけのクレープが差し出される。

 なんだか餌付けをされているような体勢に見えなくもない気がするが、気付けば焼けるように自分の身体が熱かった。もう何も考えない方がいいだろう、ただクレープを齧るだけじゃないか、と果てしなくうるさい自分の心臓の真ん中に注ぎ込むように言い聞かせてみる。

 それでもやっぱり鼓動は激しいままで、蓮は少し力みながら目を瞑った。

 ——どうかこの心音が小鳥の耳に届いていませんように、そんなことを願いながら、ぱくりと小鳥の差し出したクレープを齧ってみた。

 甘い? 酸っぱい? 美味しい? どれもピンとこなかった。

 それどころか、今自分がどこで何を食べているのかも忘れてしまいそうになる。

 脳の奥にまでこびりついているかのような甘い匂いで頭がぼーっとするばかりで、何も考えられない。

 口の中に残ったそれをゴクリと飲み込んで、蓮はゆっくりと瞼を上げた。

「……こ、小鳥さん?」

「……もう」

 まだしたり顔で自分をあしらうかのように見つめているんだろうと思っていたが、蓮が目を開けると、小鳥は身を竦めて頬を一層赤く染めた顔で目を泳がせていた。

「蓮君がそんなに恥ずかしそうにするから、なんか私まで恥ずかしいよ。ばか」

「……ははは、す、すみません」

 小鳥のこういう顔は久しぶりに見た気がするな、と少し視線を泳がせた後で、一瞥する。

 口の中に残った甘さの正体は果実の糖度なのか、砂糖なのか、そうじゃない何かなのか。

 そんなことを一瞬考えたところで、「おいしかったです」とはにかみながら蓮は言う。

 お互いのクレープが手のひらよりも小さくなったあたりで、小鳥が不意に訊いてくる。

「……蓮君はさ、女の子とデートとかしたことないの?」

「き、急に何ですか。あるわけないじゃないですか」

 デートどころか友達すらできたことが無いです、と言いそうになった蓮だったが、それは齧ったクレープと共に飲み込んでおいた。小鳥が気を遣うような話題はできるだけ避けたい。

「どうりであんなに顔真っ赤にしちゃうわけだ……」

「それはもう忘れてください……!」

 さっきのことを掘り返されるのは蓮としてはなかなかに辛かった。そういう小鳥も動揺していたじゃないかと言いたくなったが、それも蓮が一連のやり取りを何の気なしにこなしていたらそうはならなかったのだろう。

 思い出すたびに、口の中に残った甘さで歯が浮きそうになる。

 逆に小鳥にはこういう経験はあるのか、なんてことは訊かなくてもわかりきっていることだろう。そう踏んだ上で、蓮は小さくなったクレープを一気に頬張り、咀嚼して飲み込んだ。

「じゃあ、好きな子とかできたことはあるの?」

「んーどうですかね。記憶には無いですね。だから、多分無いです」

 続いた質問に対しては、「今まさに隣にいてこれが初恋」というのがベストアンサーではあるが、到底言えるはずもないということもあってか、蓮にしては上手くしらを切れた。

 本来であれば上手く訊き返して会話を繋げ、広げていくというパターンがセオリーなのかもしれない。がしかし、投げ返すのも野暮というものだろう。小鳥のこれほどのルックスで色恋沙汰の一つや二つも経験したことが無いというのはまず考えられない。

「無いです」と今目の前で豪語されても到底信じられない。蓮でなくとも、誰も信じようとしないだろう。

 蓮からすれば、どう見ても「恋多き女性」でしかないのだ。というか、百戦錬磨なのだろう。想像に難くない。

 もしそうだとして、そんな小鳥が選ぶ男性とはどんな人なのだろうと、蓮はふと気になった。訊かない方が身のためのような気もしたが、いやはや恋というのは恐ろしいもので。

「小鳥さんは……どんな人を好きになるんですか?」

 気づけば、蓮はそう口にしていた。

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