ー漆ー
「好きな人とは、上手くいってるんだな」
実家に顔を出しに来た様子からすると、きっと話はトントン拍子に進んでいるに違いない。どこの誰だかは知らないが、こずえと付き合ったのは最近の話のはずだ。何せ僕と別れたのがつい先月の話だからだ。
「……ごめんなさい」
こずえはぽつりとそんな言葉をこぼした。申し訳なさそうな表情で、苦しそうな顔をして。
……ああ、僕は最後にこずえの笑顔を見たのはいつだったのだろうか。
別れ話の時も泣いていた。その前だって様子が変だとは思っていた。いいや、今思い返せば変だったのだ。
僕はいつも仕事をして、彼女のサインにも気づいていなければ、彼女の笑った顔を最後にいつ見たのかさえ覚えていない。全くもって始末に負えない。
「謝らないで。もう僕たちは終わったんだし」
終わった? 本当に終わったのか? まだできることがあるんじゃないのか?
そんな風に足掻く僕の頬を生ぬるい風がふわりと撫でた。その風に乗るようにこずえの長い髪は揺れ、それを抑えるようにして左手で髪を抑えている。
その時僕は初めて気がついてしまった。彼女の薬指にはめられた、シルバーリングを——。
僕の視線に気づいたのか、こずえは慌てた様子でそのリングがついた手を右手で隠すように抑えた。
「——幸せに、なってね」
これは僕からの、せめてものはなむけの言葉だった。心から言ってるのかと言われると、正直、言葉を濁すだろう。
けれどこれが今、僕が彼女にできる最大限の祝福だった。
……たとえ、こずえを幸せにするのは僕じゃなくても。
それはすごく悔しいことだし、本当は僕が幸せにしたかったのだけれど。だけど、それでも……。
「ごめんなさい、雅人さん」
こずえは苦しそうな表情で瞳を潤ませながら、そう言葉をふり絞った。
僕はこんな顔のこずえばかりを見ている気がする。こずえは笑った顔がとても綺麗な女性なのに。
でもおかしいのは、僕はどうしてもこずえの不幸を願えない。どんなに手を伸ばしても、もう手が届かない相手だとしても。それがどんなに悔しくて、悲しくて、喚き散らしてくなったとしても。
それでも僕は、こずえに不幸になって欲しくないと思えるんだ。
「僕はいつも、君をそんな風に泣かせていたのかな」
ふとそんなふうに思って、思わず言葉は僕の口をついて出た。
僕が仕事を優先してこずえとの予定も、時間も全てを犠牲にしてしまった時。約束を破った回数なんて両手両足の指を足しても足りないくらいだ。
そんな時、こずえはこうして一人で泣いていたのだろうか。
こずえは一生懸命首を左右に振っている。ブンブンと音がなりそうなほど振っている。
「そんなことない。ただ、私は雅人さんよりも大切だと思える人が出来てしまったの。だからごめんなさい……」
結果的にそれは、僕がこずえを一人にしたせいだろう。だったらやはりこずえが謝ることはない。全ては起こるべくして起こったのだから。
『——かりんとう饅頭……息子が好きだったお菓子の一つだわ』
その時なぜかふと、キヨさんの会話が脳内で再生された。
あやかし新聞を更新したあの日、僕とキヨさんはこの階段の一番下の段に座って、そんな会話をしたんだった。
息子さんが生前好きだったお菓子だというかりんとう饅頭。キヨさんはかりんとう饅頭の箱を見ながらそんな言葉を言っていた。
……ああ、左右が言っていたのはそういうことか。
「僕は、こずえには幸せになって欲しいと、心から思っている」
なぜキヨさんが後悔したのか。それは後日キヨさんが言っていた。息子さんと旦那さんが生きている間に、もっと間に入って二人を取り繕ってあげればよかったと。
旦那さんは東京で目が出た息子さんのことを、こっそり応援して本を買って読んでいたんだとか。だけど旦那さんはそれを息子さんに言うことを拒絶し、さらに二人とも意固地なせいでそのまま関係を修復する前に亡くなってしまった。
凛花ちゃんに関してもそうだ。みーちゃんの世話がろくにできず、みーちゃんが生きている間にちゃんとお別れの挨拶がきなかったことを悲しんでいた。
——別れとはいつも、突然やってくるのだ。
僕とこずえが突然別れたように。キヨさんの息子さんや凛花ちゃんのみーちゃんが突然この世を去ったように。
「今はまだうまく言えてないかもしれないけど……でも、本心だから」
人はいつ会えなくなるか分からない。人はいつ死ぬのかも分からない。
全ては神のみぞ知る、だ。
「だから、こずえには笑っていて欲しいんだ」
僕がそう言うと、こずえの瞳から真珠のような涙が頬を伝って落ちた。
……けれど、こずえは笑っていた。
「……ありがとう。私も雅人さんの幸せを心から願っているから」
そのあとは何を話したのはあまり覚えていない。ただ気がつけば僕は、再び神社の鳥居の前に立っていたんだ。
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