ー陸ー

「雅人」


 突然聞こえた僕の下の名前。この場でしかも呼び捨てで呼ばれることなどなかっただけに、僕は思わず驚いてしまった。

 僕の名前を呼び捨てで呼んだのは、他の誰でもなく左右だった。

 さっきまでみーこさんと向き合っていたこの小学生のような風貌の神使は、僕に向き合って、こう言った。


「お前、忘れるなよ。キヨがなぜ後悔していたのか、なぜ凛花が悲しんでいたのかを」


 ……は? なんだそれ。


「それは一体、どういう意味だ?」


 そう聞き返したとともに、左右はフッと風に舞う花びらのようにふわりと僕たちの前から姿を消した。

 ……って、おい。言い逃げか! 自分だけ言いたいことを言って消えるとは、卑怯だぞ!

 どうやら今度は、僕が憤慨する番のようだ。


「あいつ、何が言いたかったんだ?」


 キヨさんが後悔した理由と、凛花ちゃんが悲しんでいた理由。それって……。


「そういえば、更新したあやかし新聞はご覧になりましたか?」


 みーこさんのこの言葉に、僕は飛び跳ねて反応した。


「そうだ、そうでした。あの最後の依頼主の返事は一体誰に宛てたものなのでしょうか?」


 そうだった。僕が慌ててあの心臓破りの階段を二段飛ばしで駆け上がってきた理由はそれだ。幸せを願う女性という相手が誰なのかが知りたくて、それをきこうとしていたんだった。

 するとみーこさんは口を開いたかと思ったが、なぜかそのあと驚いたように一瞬麗しい瞳を見開いたあと、ふわりと笑った。


「その相手は佐藤さんがよく知る方ですよ」


 そう言ったあと、みーこさんは僕の背後を見つめていつもの元気な様子でこう言った。


「こんにちは。今日も来てくださったんですね」

「あの、下の掲示板に貼られていた新聞を読んだんですが、あれって……」


 僕の背後にある神社の入り口。鳥居があるあの場所から別の誰かの声が聞こえた。

 僕はその声に引っ張られるかのようにして、気がつけば振り返っていた。

 そこに立っていたのは、息をあげながら立ちすくしている、こずえの姿だった。

 僕と目が合った瞬間、こずえは申し訳なさそうに目をそらし、みーこさんに向けてこう言った。


「ごめんなさい。またの機会に来ますね」

「待って!」


 気がつけば僕はこずえを呼び止め、彼女に向かって駆け出していた。

 本能とでもいうのだろうか。何も考えず、逃げるように階段を駆け下りる彼女に向かって、僕は慌てて走る。

 僕は昔から目に見えたものしか信じないたちだ。だから幽霊も信じないし、神様も信じていない。神社で参拝するのは母親から言われた昔からの習慣というだけで、本気で神頼みなどしたこともない。左右は見えるから信じたとしても、神様を見たわけでもないのだからそこは話が別だ。そんな僕だからこそ、今まで人の縁というものに信仰心に似た気持ちを持ったこともないのだ。


 だけど今だけは違っていた。

 こんな片田舎の小さな神社で、僕たちは二度も出くわしたのだ。そもそもここは僕たちが普段住む東京でもない。そんな僕らが出くわしたのだ。同じ時間に、同じ場所で、それも二度も。

 これに縁を感じるなという方が無理な話だ。縁は見えなくとも感じ取れるもの。すなわちそれは、目には見えないけれど僕が持っている感情と同じなのだ。


「こずえ、待って!」


 僕はこずえの腕を掴んだ。相変わらず華奢な腕をしている。


「ごめんなさい。まさか雅人さんがこの神社にいるなんて知らなくて——」

「こずえ、待って。落ち着いて」


 取り乱しながらもこずえは僕から顔を逸らし続ける。そんな彼女の様子に、彼女の腕を掴む手に、さらに力が加わった。


「話がしたいんだ、頼むから逃げないで」


 こずえとはもう会うことはないだろう。だから話すこともないだろうって思っていた。普段僕はスマホを持ち歩かない。ここに来てからと言うもの、ほぼスマホを見ていない。

 来たばかりの時は仕事のことで連絡があるかと思って気にはしていたが、それもすぐに思い直し、スマホの電源は落としたままだ。

 スマホを開けばいつも仕事のことを考えているか、こずえから連絡が来るんじゃないかとどこかで期待している自分がいたからだ。

 話すことはもうない。みーこさんに言ったように僕の気持ちは伝えるつもりもない。押し付けてこずえを押しつぶしたくもない。

 そう思うのに、僕は今こうしてこずえを追いかけて、こずえの腕を捕まえている。思いと行動が、ちぐはぐだ。

 気がつくと、僕の手を振り払おうとしていたこずえの動きが止まっていた。


「少しだけ、話ができないか?」


 動きが止まったこずえの様子を見て、ぎゅっと握りしめていたこずえの細い腕を解放した。

 こずえは観念したのか、解放された腕をだらりと地に向けて下げ、初めて僕をまっすぐ見つめた。そのあと、ほんの少しだけ首を縦に振って。

 実際に話をするとなると、何から話せばいいのか……。さっきまで勢いでこずえを追いかけていたが、その勢いのまま言葉は出て来る様子がない。

 こずえも再び僕から目線を逸らした。けれど逃げる様子はなさそうで、ただその場に立ち尽くしている。


「あっ、えっと……」


 口ごもる。さっきまで上がっていた熱が一気に下がっていく。僕のこめかみからは汗がツーっと滴り落ちた。


「どうしてこずえがここに?」


 そうだ。まずはそこだ。

 ひねり出した自分の言葉に、自画自賛しながら僕はこずえの顔を覗き込むように向き合った。


「……ここから300キロほど離れた隣村に用事があって」


 隣村? そんなところに一体何の用が?

 僕の疑問は、こずえの次の言葉によって解消された。


「……彼の、実家がそこにあるの」


 ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 舞台の幕が下りたように目の前が真っ暗になり、思わず僕の体はよろめいた。危うく階段から転げ落ちそうになったが、その一歩手前で何とか踏みとどまり、僕は足の裏に全ての力を込めて体を支えた。


「そう、か……」


 なんだ。そっか……僕はてっきり……。てっきり僕は、心のどこかで期待していたのだ。

 普段は縁やら運命やらは信じないリアリストのくせに、今だけは違った。夢を持ってしまった。もしかするとこれは神のご縁で、こずえとこうして再会したのも、こんな片田舎で二度も会えたのも、もしかすると運命のいたずらというやつで、神が僕たちをもう一度くっつけようとしてくれているのかもしれない。神の粋な計らいだとばかり期待して、勝手に盛り上がっていた。

 幸せを願う女性。依頼人の名前も書かれていない占いの返事欄には、その人の幸せはすぐにでも叶うようなことが書かれていた。だから僕はてっきり……。

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