ー伍ー

 その時に凛花ちゃんの滑らかな頬を、一粒の大きな雫がツーっと流れ落ちていく。何度も流れていった涙。けれどその一粒はまるでシューティングスターのように凛花ちゃんの瞳からこぼれ落ちた。


 この段ボールの中に眠るみーちゃんの姿を見ていると、なんとなく凛花ちゃんがどうやってみーちゃんを隠していたかが想像つく。段ボールの中にはシミが広がっている。もしかしたらあげたミルクを猫がひっくり返した跡なのかもしれない。だけど正直、匂いが強い。だから僕は、それはきっと汚物によるものではないかと思った。

 こんな状況から察して、一番凛花ちゃんが後ろめたく思っているのはきっと、倉庫の中でずっと閉じ込めていたことだろう。お風呂に入れてあげることもできず、親には反対されてどこかにまた捨てられてしまうのではないかと心配して、家にあげてあげることもできず、みーちゃんはたった一人でこの世を去ってしまったということ。

 きっと、一人で心寂しかっただろう。きっと、辛かっただろう……もし僕が凛花ちゃんだったら、そんな風に考えたと思うから。


「どのみち自由はなかったんですよ」


 気がつけば僕は、そんな言葉を放っていた。


「みーちゃんみたいな子猫に何ができたのか? きっと生前は自分で餌を探すこともできなかったでしょう。なにせその段ボールの中から抜け出すことも逃げ出すこともできないような小さな存在だったのですから」


 僕は凛花ちゃんから目を逸らすことなく、さらにこう言葉を付け加える。


「だからきっと、凛花ちゃんが悔いることはないのですよ」


 どこの馬の骨かもわからない僕にそんなことを言われても、凛花ちゃんからすれば信憑性など全くないかもしれない。巫女であるみーこさんや、宮司であるみーこさんの父親から言われるのならば、まだ納得のしようもあるのかもしれない。それがわかっているにも関わらず、僕はそう言わずにはいられなかった。

 だって僕には——凛花ちゃんの頬から伝い落ちる涙の雨に戯れるようにして遊んでいるみーちゃんが見えていたのだから。

 凛花ちゃんの膝の上に座って、それはそれは嬉しそうに。


「さぁ、きちんとお別れの挨拶をしてあげましょうか。きっとみーちゃんはまだ近くにいるでしょうから」


 みーちゃんの姿が見えていないはずなのに、みーこさんの父親はそう言って、みーちゃんの亡骸が眠る段ボールに向かって静かに手を合わせた。

 凛花ちゃんも何やら考え込むような顔をした後、みーこさんの父親と同じようにそっと手を合わせて、目を瞑った。小さな両手を顔の前に合わせながら、一生懸命何かを伝えている。別れの言葉がどういうものなのか、僕には分からないけれど、凛花ちゃんのその姿は大人となんら変わらないように思えた。


 ——それからみーこさんの父親は凛花ちゃんと一緒にみーちゃんの魂の抜けた体を土に返すために僕と、みーこさんを神社に残して行ってしまった。



  ◇



「……お前、こうなるって、はなから分かっていたのか?」


 いつの間にやら現れた左右に、僕はそんなことを聞いた。


「どうしてみーちゃんは昨日死んだのか? お前と一緒にいたのはなんでなんだ?」


 矢継ぎ早に質問するが、左右は特に答える気もなさそうで、僕とは視線を合わせようとはしない。

 けれど今日だけは僕に女神が味方した。文字通り僕の女神であるみーこさんだ。


「そうよ、昨日左右が用事あるって言って出かけたのはみーちゃんに会いに行ってたってこと? 今回の結末も、みーちゃんのことも教えてくれてたら私たちだって何か手助けできたかもしれないのに」


 珍しくみーこさんが左右に憤慨している。唇を紐でキュッと結んだように釣り上げて、不満な様子を露わにしている。そんなみーこさんに対しては、返事をするのがこの生意気なねずみ小僧だ。


「言ったところで結末は変わらないだろう」

「そうかもしれないけど、気持ちが変わるかもしれないでしょ。何かできたんじゃないかって後で後悔する方がいやだもの」

「何かできたんじゃないかなんていうのは、それはみーこのエゴだ」


 あっ、みーこさんの尖った唇は火山だったのかもしれない。突然唸りを上げてその山は爆発した。


「それなら私が新聞を作って依頼を受けてるのは無駄ってこと?!」


 確かにそうなる。今まで二人三脚でやってきたはずの二人が、ここに来てまさかの仲間割れだろうか。初めて見る二人の言い合いに、僕は思わず慌てふためきながら左右とみーこさんの間でおろおろしてしまう。

 左右がみーこさんに言われるはザマーミロ、みーこさんもっとこいつに言ってやってください。なんて思う一方で、みーこさんが怒り心頭に発する姿は地獄の大王よりも怖いのではなかろうか。


「無駄だとは言っていない。思ってもいない」

「じゃあ……!」

「分をわきまえろと言っているだけだ」


 左右のこの言葉にみーこさんはカッと顔を赤くした。大きな瞳はさらに見開かれ、口をパクパクと動かしながら、声は口をついて出てこないと言った様子だ。

 ……その言い方はさすがにないんじゃないか?

 僕は思わず心の中でそう呟いた。口にしようとしたが、心の中で言葉を溢そうが、口にしようがどちらも左右にとっては同じことだ。

 左右は僕の顔をちらりと見たが、いつものようにけん制するかのような怒りは見受けられない。


「命の限りは平等にあり、本来は誰も予測がつかないことだろう。それが予測をついた時だけ一生懸命になるのか? その時だけ動くのか? それはズルいと思わないか?」


 さっきまでパクパクとしていたみーこさんの口は、静かに閉じた。そんなみーこさんに向き合う形で、左右は再びみーこさんに向けてこう言った。


「キヨの息子の時はどうだ? 死ぬなんて誰が知っていた? 誰が想像していた? 俺はキヨがここに息子の健康を願っていたことを知っている。みーこも見ていただろう。けど死期は予測していなかったし、俺には見えなかった。凛花の件に関しては俺は偶然見えたのだ」

「……そうだけど……そうかもしれないけど……」

「俺は見えても、何もできない。普通の人には見えないからな」


 いつになく左右が雄弁だ。それはつまり、左右も何か思うところがあるのだろう。麗しいみーこさんが珍しく怒ったように、左右も何かに憤りを感じているのかもしれない。

 いつもの淡々とした表情で、抑揚のない声で紡がれる言葉にも、いつもとは違う熱を僕は感じていた。


「だから私は左右と一緒に人助けをしてるんじゃない」


 みーこさんが言った言葉は、どこかさっきの凛花ちゃんを彷彿させる。どこか不満があるようで、かつ、人にというよりも自分の中に理不尽さを感じているような……。


「ああ、だから俺はみーこが新聞を作ると言った時、手伝うことを了承した。だが、俺にはここに来た参拝者の願いや祈りが聞こえても、彼らを助けるのは俺じゃない。人を助けるのはいつだって、人だ」


 なんとも悔しいが、正直左右の意見に僕は賛同していた。これは誠に悔しいことで、間違いなく遺憾なのだが。

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