ー伍ー

「せっかくなので今回のことは気にせず、ぜひまた遊びにいらしてください」


 みーこさんの父親はほのぼのと笑いながらそう言ってくれて、僕は生返事をした後、社務所を後にした。


「さて、そろそろ帰らないとばーちゃんが心配してるかもなぁ」


 そんな風に一人ごちた後、僕は手に持つ醤油とみりんを空へと持ち上げながら、大きく伸びをした。新鮮な空気を取り込んで、夕日が沈もうとしている焼けた空を見上げた。


 なんだか、不思議な一日だったな。


 鳥居の入り口まで来ると、僕は再びあの狛ねずみの石像と向き合った。

 狛ねずみ……左右がこの狛ねずみの神使なのか。みーこさんはわかるが、みーこさんの父親にすら見えない左右の姿が、なぜこの僕に見えるのだろうか。この神社に縁もゆかりもないこの僕に……。


「ねずみが抱えている玉と巻物はどういう意味なんだろうな」


 石像を見ながら再び僕がそうごちると——。


「長寿の意味を持つ水玉すいぎょく、巻物は学問を意味している」


 声は僕の頭上から落ちて来るように聞こえた。その声の先を見上げると、鳥居の上に座っている左右の姿があった。


「キヨの依頼を運んでくれて、ありがとうな」


 ……聞き間違いだろうか。この生意気な小僧からまさかのお礼の言葉が聞こえた気がするのだが。

 僕がそう思ったと同時に、左右はムッとした顔を僕に向けた。思わず条件反射で僕は屈みこんで脛を守る体制を取った。

 けれど左右は鳥居に座ったままで降りてくる様子はなく、やがて僕から視線をそらして遠くを見つめていた——。


  ◇◇◇


 家に着く頃には焼けた空がグラデーションを作り、もう夜がそこまでやって来ていた。


「ただいま、ばーちゃん。遅くなってごめん」


 昔ながらの木造の家。玄関口は木とガラスでできた引き戸だ。扉を開ける時レールをスライドするガラガラという音に乗せてそう言うと、家の奥からばーちゃんの声が聞こえる。


「こんな時間まで、心配しとったんよ。迷子になってるんじゃないかってねぇ」


 靴を脱いで玄関から続く廊下を歩くと、曲がった腰を「よっこいしょ」と言いながら立ち上がるばーちゃんの姿を見つけて、僕は買い物袋ごと調味料を差し出した。


「迷子なんかじゃないよ。ちょっと散歩がてらに神社に寄ってきたら、頼みごとをされちゃったんだよ」


 実際は迷子になっていたのだが、それはあえて伏せておいた。むしろ神社からの帰りも迷ってしまっていたのだが。

 僕はばーちゃんの前では出来の良い孫という設定なのだ。その設定は僕が決めたものだけど、それを守り続けて27年、ばーちゃんは間違いなく僕をそんな風に思ってくれているはずだ。

 だからこそ迷子などと子供じみたことになっていたとはあえて言うつもりはない。


「あれま、神社に頼みごとしに行ったわけじゃなくされたのかい? なんだか変な話だねぇ」

「本当に変な話だったんだよ、色んな意味で」


 僕は含みをもたせてそう言うと、ばーちゃんは「へー、そうかい」なんて生返事を返された。

 僕の話術が足りなかったようだと気を引き締めて、ばーちゃんが興味を惹くように魅力的に話そうと思って再度口を開いたが、僕が話をするより先にばーちゃんがこう言った。


「ばーちゃんちょうどご飯の準備できたとこだったんだよ。だから先にご飯にしないかい? せっかくの温かいものは温かいうちに食べるんが美味しいしねぇ」

「そうだね。じゃあ手を洗ったらすぐに戻るよ」


 ばーちゃんの意見に異論はなかった。せっかく作ってくれたばーちゃんの美味しい料理をみすみす味が落ちるのを待つ馬鹿者は毒でも食らうべきだと思ったからだ。

 お風呂でスッキリしたいところだが、まずは食事が先だ。そう思って洗面台で手を洗った後、僕は再び居間へと戻った。


 するとばーちゃんは既に僕の分までご飯を装い、お椀に味噌汁を注ぎ入れ、焼きたての秋刀魚と、冷蔵庫からたくあんやら野菜の煮浸しなど普段から常備している副菜を持ってきてくれた。

 そして最後に冷たい麦茶をコップに注いでくれた後、やっとばーちゃんはテーブルの向かいに腰を下ろした。


 なんとも至れり尽くせりとはこのことだ。何もしなくても温かな料理は用意され、飲み物まで向こうからやって来るように準備してくれる。一度一人暮らしを経験している身からすれば、こんなにありがたいことはない。


 この休暇を取る前は、前の彼女と半同棲の生活を送っていた。彼女は大手化粧品メーカーの受付嬢。僕が言うのもなんだが、彼女はかなりの美人だ。彼女があの会社に受かったと聞き、部署が受付だと言われた時は、まさしく彼女が働くであろう会社は、顔で採用したんじゃないかと疑った。なにせ彼女の希望部署は表に出ない総務部だったのだから。

 受付嬢の彼女は、ほぼ定時で仕事が終わり、いつも僕のために夕食を用意してくれたり、休日は僕が休みを返上して仕事をするといえば、家の片付けやそうじまでしてくれていた。


 彼女はとても献身的な女性だった。

 なんだかばーちゃんの様子を見ていて、前の彼女のことを思い出してしまった。僕は彼女と別れた傷心を癒しにここに来たというのに……。


「それで、どこの神社に行って来たんだい? この辺だったら、豊臣神社かねぇ?」

「そうそう、そこだよ。なんでも神使の狛ねずみがいるんだとか」


 とびきり口の悪い、邪悪な存在である狛ねずみが……。そう言葉を付け加えようとしたが、なんとなく毒を吐くのはやめておいた。せっかくの美味しいご飯が不味くなる気がしたからだ。


「えーえー、あの神社は人助けしてくださるところじゃなかったかねぇ? そういえばじーさんが昔はあそこの神社にお百度参りしたって言ってたわ」


 かっかっかっ、とばーちゃんは口の中を大きく見せて笑った。それに合わせて口の中から米粒が僕のお皿の上に飛んで来た。じーちゃんもそうだったけど、どうやらばーちゃんも口を閉じて笑うという習慣がないらしい。ばーちゃん達世代の文化なのかもしれないと思いながら、僕は箸を止めずに話に聞き入ることにした。


「じーさんはどうしてもばーちゃんと結婚がしたかったからね、神様に頼みに行ったって言ってたんだよ」


 僕の記憶の中にいるじーちゃんはいつもばーちゃんにあれこれ指図する亭主関白なイメージだった。夜になるとじーちゃんがテーブルの真ん中にドンとあぐらをかいて座り、ばーちゃんはその隣で甲斐甲斐しくも食事をよそってる印象だ。

 そんなじーちゃんが結婚前はばーちゃんと結婚したくてあの神社に足繁く通っていたなんて驚きだ。

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